高田義裕の人生論

今日の箴言

人間にとって、お金は必要なものであろうか。それは最低限必要である。なぜなら、お金が無ければ生活してゆけないから。ただ、それだけである。しかし、こよなくお金を愛する者がいる。お金があればあるほどいいと思っているのだ。しかし、お金を膨大に持っていても、この世の中には、お金で買えないものがいっぱいある。愛情はお金で買えないし、親友もお金で買えない。人としての信用と値打ちもやはりお金では買えない。こう見ると、お金で買えないものは人間にとって生きていくために決して欠かせない大切なものばかりである事に気付く。そうだ、お金なんか無くても人は生きていけるのである。お金で買えるものは、せいぜい高級車とか、豪邸とか、そのたぐいの贅沢品ばかりである。そんなものは別に無くても全く困らない。そうだ、お金を沢山持っていても、そんなどうでもいいものばかりが買えるだけで、ほとんどの部分は単なる見栄でしかないのである。自分の富を人に見せびらかして、それで人より自分は何か特別で偉くなったと思ったら大間違いなのである。そんな誇りはただ虚しいだけである。よって我々は僅かに着るものと食べるものとがあればそれで満足するのである。これこそ人間の幸福の秘訣である。

2.人間とは一筋縄ではいかないほど、面白い存在である。世の中には実に様々な種類の人達がいる。例えば、陰では、その人の事を悪く言っているのに、その本人には、親切を示したりしているのである。これはもう、論理的には理解不能な行為である。また、陰では、その人の事を良く言っているのに、その本人には、辛く当たるのである。これほど人間とは矛盾に満ちた生き物であり、説明の付かない生き物なのである。あなたの常識は、他の人にとっては非常識であり、他の人の常識はあなたにとって非常識なのである。人間とはまさに、姿形は皆同じでも、中身は全くの別の生き物と考えて良い。だから私達の想像を超えて遥かに、私達人間は全く未知の存在なのである。

3.神を信じていない人達の人間関係とは悲惨なものである。この世の中には実に、いろんな情報で満ちているが、その99%はどうでもいい情報ばかりである。逆に言えば、どうでもいい情報だから、世間に公表されているのである。本当に大切で、命の存続に関わる大事な情報は、決して表には出て来ない。それだけみんな大切な情報を隠しているのである。そしてあなたにとって命に関わる大事な情報を他の人は知っているのに、あなたには決して本当の事を言ってはくれない。あなたは取り返しのつかない失敗をして、ようやくそれに気付くが、他の人はあなたの失敗を見て、陰でほくそ笑んでいるであろう。なぜなら、自分達が苦労をして、やっと得た知恵なり、知識なりをただであなたに教えてくれるはずが無いからである。これほどこの世の中の人間関係は、荒廃している。まずその事に気付いて欲しい。しかし神を信じている人達の人間関係とは幸福なものである。たとえ自分が損をしても、あなたに本当の事を言ってくれるし、あなたにとって命に関わる大事な情報もただで教えてくれる。これだけ神を信じている人と神を信じていない人との心の状態は真逆であるという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

神と悪魔の対話

[悪魔]  あなたに最高の処世訓を与えよう。それは、誰も信用するな、ということである。

[神]   たとえ、あなたは誰かに裏切られようとも、他の人を信じることを続けていきなさい。               (高田義裕 著 、[命の書]より抜粋。)

[解説]

神の存在を信じない人達の世界とは、どの様なものであろうか。それは腹の探り合いである。みんな子供時代は、心が純粋で、なんでも疑う事無く、人の言う事を信じたものであった。しかし、成人して大人になり、社会人として一般社会に出ると、様相は一変する。そこは弱肉強食の世界であり、食うか食われるか、の野生のジャングルの世界である。心の純粋さは、弱さと見なされ、正直にしていたら、皆、頭の狡猾な人達の喰いものにされ、利用されるだけ利用されて、使い物にならなくなったら、ゴミのように捨てられる。人々の大半は、世の中に揉まれて、その様な酷い体験をする。そこで人は悟るのだ。純粋さだけでは、弱者になって、大損するだけであると。そうだ、自分も狡猾になって、賢くなり、相手に一杯喰わせてやれるほどのしたたかな者にならなければ、負けてしまうと。そうして、すべての人は誰も信用できなくなる。相手の人間は、自分がスキを見せれば、自分を貪り食おうとするオオカミの様にしたたかで油断がならない、と身構え、自分の性格も、昔は持っていた心の純粋さはいつの間にか全く失われてしまい、相手の一挙一動に細心の注意を払って、疑いの目で見る様になり、互いの思惑の探り合いという醜い知能戦と化すのである。要するに素直に物事を受け入れられなくなるのだ。例えば、相手から本当に親切にされても、それを素直に感謝して受け入れる事が出来ず、こんなに親切にしてくれるのには、何か良からぬ魂胆(裏)を持っているに違いないと、警戒心を抱くのである。その様な意味においては、確かに、悪魔の言う通り、誰も信用しない事は、賢い処世訓となるであろう。しかし、それに対して、神は何と言っているか。たとえ裏切られ、酷い目に遭っても、人を信じ続けなさい、と言っているのである。なぜそうするのか。何故なら、人間にとって、一番大切なのは、心の純真さと素直さだからである。その美しさが、人を支え、助け、他の人を信じ、他の人を愛する根源となるからである。あなたがこれまで生きて来られたのは、あなたの親からの純粋な愛を与えられて来たからであり、親友や仲間からの信頼出来る、親切心によって生きて来れたのである。要するに人は互いに愛し、愛されなければ、十分心身共に健全で健康な者と成れない様に、神からその様に造られているからである。よって、神を信じる人達は、すべての事を信じ、すべての事を愛し、たとえ裏切られても、それを根に持たず、神が私達を愛してくださっている様に互いに愛し合う事を続けていくのである。その様にして、自分をすべての人達の良心に推薦するのである。よって、あなた方も、たとえ誰かに裏切られようとも、純粋な愛を他の人に示し続けていけば、必ずや、あなたの考えと同じ純粋な人を引き寄せる事になり、必ずや、神があなたのその良い行状をご覧になって、あなたに良い報いを与えてくださるのである。聖書の聖句にはまさにこう書かれてある。新約聖書、パウロに拠る書、フィリピ人への手紙2章3節と4節、[何事も闘争心や自己本位の気持ちからするのではなく、むしろ、他の人が自分より上であると考えてへりくだった思いを持ち、自分の益を図って自分の事だけに目を留めず、人の益を図って他の人の事にも目を留めなさい。]

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世の中を良くしようとしても、容易に変わらないのは、全人類の大半は、保守的だからである。確かに今の世界の現状は経済的にも厳しく、大きな諸問題を多く抱えている。しかし人間の心理というものは、確かに今、経済的に厳しくて、苦しくても、変化する事を大半の人が望まないのだ。それはなぜかと言うと、誰かが今の社会体制を変えると言っても、大半の人々はそれに対して疑心暗鬼であり、不安を感じるのだ。何しろ、今までの生活がずっと続いて来て、多少苦しくても、人々はそれに慣れて順応してしまっているからである。変に世の中が変わって、今よりも生活が悪くなる不安もあるし、また、新しい変化に、また初めから自分達が今までのやり方を捨ててまで、順応しなければならない事を億劫にめんどうに感じ、急な変化に対応するだけの犠牲を払う価値があるかという確実な保証も無いから、結局、今のままで我慢した方がマシだという現状維持派に終始してしまうのである。全人類を100%とすれば、30%の人が改革を望んでいる。そして政治に興味の無い人達の割合も20%いる。30%+20%で50%の人が改革を望んでいても、残りの50%の人々が現状維持派、すなわち、保守派なのである。よって、賛成派50%で、反対派50%で、プラスマイナスゼロになり、結局は、何も変わら無いという事になる。要するに、世界を本当にチェンジする為には、よほど指導力のある、常に具体的な、効果のある改革案を人々に開示して、人々の信頼を得られる様な、立派で公平な指導者で無いと、世界を変える事は出来ないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

よく人生訓として、若い時から苦労をしろ、とか、勤勉に一生懸命働け、とか、叱咤激励する私達を追い込む様な教訓で満ち溢れているけれども、それをちゃんと人生の若いうちからわきまえて実践している人達は文句無く立派な人達である。彼等は、常に自分の限界を超えようと必死に自分を追い込み、極限状況にまで自分を持って行き、常人には計り知れないハードな世界に身を置いている。確かにこれは正しい生き方の1つではあろう。しかし、これは絶対的に正しいかと言うと決してそうでは無い。例えば、親に甘やかされて育ち、何の不自由も無く暮らし、日々を何となく、のほほんと生きて来た人達もいる。果たして彼等は間違っているのだろうか。実は決してそうでは無い。実際には人生の最初のうちから優秀に生きて来た人達と何ら変わらないのである。なぜそう言えるか。なぜなら、人生をのほほんと生きて来た人達も、いつまでもその調子で生きていけるわけでは無いからである。人生とは、苦しい事が50%あり、楽しい事も50%ある、それらを足してプラスマイナスゼロの状態の事を言う。これはあらゆるすべての人間に平等に与えられている。若い時から苦労をして生きるという事は、苦しい事の50%を5で割り、また、楽しい事の50%を5で割り、互いに10%ずつに分け、10%×10にする。そして、まず苦しい事を10%我慢して行う。そして次には楽しい事を10%味わう。すなわち、一時間働いたら、一時間休むのである。これを交互に繰り返し、結果、100%を難なく楽に達成するのである。しかし、最初から楽して生きている人間は、まず楽しい事50%をまるごと味わう。すると残っているのは、苦しい事50%だけである。そうだ、10時間休んでしまったので、残りの90時間は休み無く働かなければならないのである。これは並の人間には耐えられないほどの苦痛である。そうなのだ。最初は楽していても、最後には、地獄の苦しみが待っているのである。これは自らをあえて極限状況にまで追い込み、ハードな世界を生きている人達の10倍ものハードさを強いられる事になるのだ。すなわち、楽していた人の方が苦労をして来た人よりも後で10倍もの苦労をする事になるのである。これは極限状況のさらなる極限状況に追い込まれる事に等しい。この結果、苦労の量と質が10倍違っても成果は互いに同じになってしまうのである。そうなのだ。昔から人生訓として若いうちから苦労しろ、とか、勤勉に一生懸命働け、とか言う教訓は決して人を追い込む目的で言っているのでは無く、若いうちから苦労すれば、後の人生は楽に生きられるし、損する事は無い、むしろ得をするよ、と言っているのであり、歳をとってから苦労しても苦しいだけで人生は終わってしまい、得する事は無い、大損するよ、と言っているのが事の真相なのである。すなわち、苦労を先に選ぶ方が、最終的には楽できるという事が人生の教訓なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

ある貧しい男がいた。彼は自分が何の価値も無い事に強い劣等感を持っていた。だから、いつも人から脚光を浴びたい、有名になりたい、目立ちたいという願望を持っていた。ある時、道端に捨てられていた新聞紙に、あなたも100万円で有名人になれます、という見出しの付いた広告が目に入った。それは、100万円出せば、誰でも1日だけテレビに出演できるし、観客の目の前で自分を披露する事が出来ると書いてあった。これを見て、彼はこれこそチャンスであると思い、一発奮起して、テレビに出たい一心で、一生懸命働いて100万円をひどい思いをして貯めた。そして、その企画会社に電話して、その企画に参加したいとの申し込みをした。それで彼はそのテレビの番組に出演する事に決まった。いざ出演して見ると、自分の憧れていた芸能人や有名人には直接会えたし、多くの観客の前で拍手喝采を浴びて有頂天になった。しかし、その夢のような1日も瞬く間に過ぎ去り、苦労をして貯めた100万円も無くなり、彼は一瞬にしてまた元の地味で冴えない何にも無い日常に戻った。果たしてあの出来事は何だったんだろう、夢でも見ていたのでは無いか、というくらいの落差を感じ、彼はその事を非常に虚しく感じた。そうである、これは何かと類似していないであろうか。そうだ、人生である。これは人の人生と同じである。貧しい家に生まれ、劣等感から抜け出す為に一生懸命働いて、大金持ちになり、有頂天になっても、いずれは必ず死が訪れる。先程のテレビの企画のお金の金額と有名人になれる時間の長さが違うだけで、本質は同じである。人は死んでも甚だしい名誉も莫大な財産も一緒に持って行く事は出来ない。あなたが死んだら、それは一体誰のものになるのか。すべての事はまるで夢を見ていた事の様に死をもってすべてに幕が降りる。何と虚しいことであろうか。所詮私達は貧乏人であり、たとえお金持ちになっても、それは貧乏人が無理してただ見栄を張っただけの事なのだ。そんな事を羨ましく思うのは虚しい事であり、愚かな事なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世の中の営みは皆、進化論的な思想から来る、勝者しか生き残っていけない弱肉強食の世界であり、神などいない、神など必要ないという大前提の元に積み上げられているものである。しかし、本当は、この世の中の営みが存続していけているのは、神エホバの主権の立証が果たして正しいのか、それとも、人間による人間の支配の仕方が正しいのかという論争の決着の為だけにこの世の中の営みがあえて存続する事を神によって許されているだけなのである。すなわち、人間を支配するのは人間が支配した方が上手く行くのか、それとも、神が人間を支配する方が上手く行くのかという問題提起がなされており、この論争は最終的に神こそ人間を支配するのにふさわしいという結論に達するまで、留め置かれているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人生の価値とは、どれだけ自分が公正(公平)、フェアーに行動出来たかに懸かっているのである。

2.他の人の欠点に目ざとくあるのでは決して無く、他の人の長所を気が付く事に目ざとく無ければならない。

3.生き物にはすべて、自分達よりも上である自分達を統率するリーダー的な存在が必要不可欠であること。すなわち、魚類、鳥類、爬虫類、昆虫類、哺乳類などのすべての動物は、霊長類である人間が彼らを統率するリーダーとなって世話して行かなければならないのであり、逆に人間には、さらに上の霊的存在である神エホバによって統率されねばならないのである。

4.最初から心が良くても、それに何の価値も無いのであり、意識して良くなる様に心掛ける事に初めて価値があるのである。

5.はっきり言って、失敗や挫折をした事の無い者は、むしろ不幸者である。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

ある2人の大富豪がいた。彼らはある時、偶然ばったり会い、久しぶりなので近くの喫茶店で少し話をすることにした。彼らは座席に座ると、コーヒーを2つ頼んで、会話を始めた。

最近の近況はどうだい。と1人の彼が言うと、もう1人の人は、

そうだね、仕事は順調に行っているし、最近は海外に出張する事が多くなって、それで先日、大きな買い物をしたよ。

何を買ったんだい。もう1人の彼が聞いた。すると彼は答えて、

飛行機を買ったんだ。ジャンボ旅客機のでっかいやつ、ボーイング社の747BBJだよ。420億円もしたんだ。

それを聞くともう1人の人は、

そりゃー凄い。君は総資産をどれだけ持っているんだい。すると彼は、

そうだな、大した事無いけど、1000兆円は下らないと思うよ。と彼は言った。

相手はびっくりして、

そりゃー凄い、僕でも100兆円しか持って無いよ。君の10分の1だね。

それはそうと、君の近況はどうなんだい。と飛行機を買った方の彼が言った。

そうだね、僕も仕事の方は順調に行っているし、最近は仕事の事はすべて部下に任して、少しボランティアを始めたんだ。

ほう、どんなボランティアだい。すると彼は言った。

最近はどこも不景気で、仕事を失った人達で溢れている。そういう人達を支援するボランティアさ。と彼が言うと、もう1人の人が、

そういうのは何か儲けがあるの。と聞いた。すると彼は答えて、

何にも無いよ。本当に慈善事業さ。するとそれを聞いた彼は、

それは凄い。何でそんな気前がいいの。すると彼は言った。

気前がいいわけで無いさ。つい先日、書店で、[浮浪者の現実]というドキュメンタリー的な本を読んで啓発されたのさ。するともう1人の人は聞いた。

どんな内容なんだい。すると彼は言った。

そうだね、浮浪者の現実というものは、はなはだ厳しくて、彼らは最初は仕事もしていたんだが、彼らは人並みの仕事の量がこなせなくて、社長にこっぴどく怒られて、厳しいパワーハラスメントを受けるんだ。そうしている内に心を病んで、仕事を続ける気力が無くなり、自分から仕事を辞める人が大部分なんだ。そうして、昨日までアパートメントに住んでいたのに、家賃を払えなくて追い出され、今日は橋の下で野宿ってわけさ。

それは大変だね。と彼が言うと、もう1人は、

そう、大変なんだ。それも友達にも親族にも助けを求める事が出来ないんだ。

なぜだい。と彼が聞くと、

彼らの親達は皆、貧しくて、親元に帰っても親は彼らを養っていく事が出来ないんだ。たとえ、家に帰っても何も無い。また、彼らに共通しているのは、みんな半人前のくせに、プライドだけはすごく高いんだ。仕事に対するやる気も乏しいし、生意気な態度を取る。そりゃ、周りの人達からは見放されて、全く孤独なんだ。

そりゃ、ひどいね。と彼が言うと、

そうなんだ。ある意味、どうしようも無い人達だよ。そういう人達を最低限、生活させて行こうという試みなんだ。すると相手は聞いた。

具体的にどうするんだい。すると彼は言った。

まず、土地を購入したのさ。それは、陸の孤島の離れ島なんだ。大きさは日本列島ぐらいの大きさ。すると相手は、

それは凄い。島にしては大き過ぎるね。すると彼は、

そうでも無いさ。太平洋のほぼ真ん中に位置する何も無い所だから、土地の価格はゼロに等しいんだ。そこに生活必需品や建築用の木材をヘリコプターで運んで、屋根付きの施設を作るんだ。そこに世界中にいる浮浪者達を連れて来ては、そこに住まわせるんだ。と彼は言った。それを聞いた相手は、

彼らは君のお陰で平和に暮らしていける様になったんだね。と言うと、彼は首を横に振り、

全然平和じゃ無いよ。と言った。

どうして。と彼が聞くと、

毎日施設の中では、人間関係の問題で争いと喧嘩が絶えないよ。彼らほどのレベルの低い者同士でも、優劣の区別が生じているのさ。彼らの中からでさえ、回りを仕切るボスの様な者さえ現れ、互いの派閥に分かれて対立しているのさ。昨日なんかはひどかった。シャワールームを使う順番の優劣で争い合い、1人が喧嘩で死んだんだ。私は、総責任者として、殺した相手のボスを独房に入れなければならなかったし、死人も誰も掘り起こせない別の場所に移して、埋葬しなければならなかったからね。それを聞くと相手の人は、

そりゃー大変だ。そんな事続けていけるのかい。と言うと、彼は苦笑いしながらこう言った。

確かに大変だけど、1つだけ良い点があるんだ。それはね、その島には50万人の囚人がいるのだけれども、どんなに喧嘩の強い奴でも、どんなに反抗的で粗暴な人間でも、僕の言う事には皆、従うんだ。私が、それをするな、と言うと、彼らは私の事を総責任者と呼んで敬礼し、誰もそれをしなくなる。まるで自分が神になった様な気分になって愉快なのだよ。それを聞くと相手は、

すごいね。みんなどんな悪党でもその島全体が1つの国の様になっていて、君を王として奉っているんだね。君は一国の支配者っていうわけだ。それを聞くと彼は、

いやいや、そういうわけでは無いけど、私は最近、ある1つの事に気付かされたんだ。すると相手は言った。

それはどんな事だい。すると彼は言った。

それはね、私の所有している島の名称は、[X収容所、最後の砦101号室]と言うんだが、この我々の生きている広い世界も、単なるX収容所101号の拡大版に過ぎないって事をね。私の島で起きている事は、この全世界で起きている事のひな型であり、模型版に過ぎないと。彼が言うと、相手は、

なるほど、レベルは違っても本質は同じって事だね。と言うと、彼は、

そう、まさにそういう事さ。相手はそれを聞くと、彼にこう言った。

君は、僕の総資産の10分の1しか持っていないと言ったけど、君の方が遥かに資産を持っているよ。僕はジャンボ飛行機しか持っていないのに、君は全世界を牛耳っている支配者だからね。僕には世界をコントロールするほどの力量は無いよ。君の勝ちだね。そう言うと、2人は会話を終え、互いに別れた。

そうである。読者よ。私達の住むこの広い世界も、塀の無い巨大な収容所であり、私達一人一人は、半人前のどうしようも無い浮浪者同然であり、囚人に過ぎないと言うことを。そして話に出て来た彼の島には、彼という最高責任者がいた様に、我々の世界にも、誰も逆らえない支配者が1人だけいるのである。その正体は、とんでも無い悪党中の悪党である悪魔サタンなのである。

 

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべて、物事を成し遂げる為には、一握りの勇気と少しのお金と地道な努力の積み重ねが必要なだけなのである。

2.自由の定義とは、ただ漠然と何でも許容されているという様な、無意味な状態を指すのでは無く、自由とは、自分より遥かに強い立場にある者からの束縛から解かれている状態を初めて指すのである。もしあなたが会社員なら、あなたは自分より上の上司からの束縛から解かれていないのであり、あなたが政治家なら、あなたは自分より上の支配者からの束縛から解かれていないのであり、あなたが経営者なら、あなたは毎月の売り上げの数字の束縛から解かれていないのである。すべて皆、何かの奴隷状態にあって、自由を満喫している者など1人もいないのである。

3.神からの裁きの音信は、この世の中において、成功を収めている者、能力のある故に自らに誇る理由を与えられている者、すなわち、この世の中で富んで恵まれている者達にとっては、彼らが富めば富むほど、その損傷の深手は大きいものであること。よって、神はこの世の中において、惨めな者、貧しい者、見下げられた者、取るに足りない者、すなわち、この世の中において貧しくて恵まれていない者達を選んで、有る者が無になる様にされたのである。なぜなら、誰も神の御前で誇る事が無い為である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

物事に対して、荒療治、すなわちショック療法でやらなければ、人間にとって本当の変化や治癒は期待出来ないのである。例えば、あなたは異性からフラれるのが嫌で、いつまで経っても好きな人に告白出来ないか。自分が傷付く事を恐れていては、決してそれ以上前に進む事は出来ないだろう。勇気を奮い起こして相手の異性に告白して、そしてフラれてもそれでいいではないか。そこであなたは自分の全存在を全否定されたと感じるかもしれないが、それでショックを受け、自暴自棄になるのでは決して無く、好きな異性にフラれた今こそが、自分という全人格を見直し、自分をチェンジするための良い機会だと肯定的な見方をし、なぜ相手にフラれたのかよく考え、行動する事によって、初めてあなたの人生は前へ動き出すのである。また、いつまでも真剣勝負をせず、自分に都合のいい妄想に耽って自分を甘やかす状態から抜け出し、何でもいいから、自分はこれだけは他の人に負けないという分野で他の人と真剣勝負をして見れば良い。自分の全力を出してたとえ、相手に敗北したとしても、自分は負けるはずが無いというプライドがズタズタに引き裂かられても、その現実を受け入れられる精神力を持って、初めて自分のレベルを思い知らされる事によってのみ、人間は真剣に人生に対して取り組む姿勢が生まれるのである。よって自分にとって嫌な事柄から逃げてはいけない。たとえ、逃げてもそれは必ず、どこまでも追いかけて来て、いずれは自分の望まない仕方で悪い報いを払わされる事になる。そうなってしまってからではもう遅いのである。歳を重ねて自分の問題から逃げて来た者は、後には、何の報いも無い、苦しみと苦労だけの地獄が待っているのである。それは歳を取れば取るほど不利なものとなるのである。どうせいずれは苦労しなければならないのなら、まだ、若いうちに、自分から自分の苦手な問題に身を投ずるべきなのである。そうして経験する苦しみや苦労は後になって、あなたの良い報いとなってあなたを保護するであろう。