高田義裕の人生論

今日の格言

新貨幣論

お金の不条理

貨幣というシステムは、非常に大雑把で無駄の多い仕組みである。例えば、キュウリという野菜とトマトという野菜は全く別の種類のものである。しかし、貨幣制度は、それを単に同じ野菜に置き換えてしまう。すなわち、誰もが同一の紙幣で売り買いできるように見なしてしまう。例えば、キュウリ1本、50セントにしたり、トマト1個、60セントにしたりと、紙幣の額に変換して交換可能にしている。我々は常日頃、何の疑いも無く、それらを購入しているが、これは非常に不自然で不合理ではなかろうか?例えば、あなたが働いて時給20ドル貰っているとする。これは平等だろうか?いや、全く違う。なぜなら、あなたはうつ病という持病を抱えていて、毎日それと戦いながら仕事をしている。仕事場に行く時間になる度に、あなたは極度の憂鬱状態に襲われる。それでも、あなたは自分の体に鞭たたき、仕事場へと向かう。それに対し、別のある人は何の持病も無く、自分の空いた時間を小遣い稼ぎ程度の楽な気持ちで仕事をしている。それで同じ20ドルである。これではあなたの苦しみが全く報われていない。すなわち、貨幣制度は、キュウリというあなたの対価とトマトという別の人の対価を単に同じ野菜という労働力に変換し、人それぞれの苦しみの事情の違いを全く考慮せずに、すべてを20ドルという数値で割り切ってしまう。しかし、この世の中において、何1つ同じ状態であるものは無く、何1つ同じ条件で成り立っているものは皆無である。よって、本来なら、すべての条件や状態に対して、1つ1つそのもの特有の価値観や事情に見合った報酬なり、正当な代価を与えられて然るべきなのである。しかし、お金とは、そういう互いの個人的事情を全く無視して、無理やり同じ価値に強要しているのである。そう、お金とは搾取そのものなのである。例えば、100人には100人通りの人生観があるのに、彼らをすべて、ただ1つの人生観、もしくはただ1つの思想に型を押し込めて洗脳支配する悪どい独裁者と同じであり、すべての人は体型が全く違うのに、ただ1つしか無いSサイズに無理やり、押し込めたりすることと理屈は同じである。これは甚だ不自然で不合理な事である。大自然とは、本来、互いの性質の違い、個性の違いを認め合い、尊重し合い、その価値観の違いを巧みで、見事なチームワークで支え合い、その効用を最大限引き立たせて、互いに最大の益を享受する多様性そのものなのである。すなわち、貨幣社会は元から大自然の多様性の否定そのものなのである。よって、経営の仕方がずさんで、非効率的で、無駄の多い会社は、いずれ必ず潰れてしまうように、すべてがお金で回っている、この我々の人類社会、すなわち、貨幣経済そのものも、いずれ必ず潰れてしまうのである。あらゆるすべての国々の種類の紙幣はいずれ途方も無い物価高を引き起こし、ハイパーインフレーションとなり、全く価値のない紙くずとなって、終わりを迎えるのである。すなわち今までの古い紙幣は全く使え無くなり、今まで貯めて来た預貯金も全く無価値となり、金持ちも貧乏人も無くなり、すべての国々の人は平等にまた一からやり直しとなり、新たなる新紙幣の発行から、再スタートするのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

この世の中はすべて、不公平に見える。ろくに働きもしないでお金を持って、贅沢に暮らしている人もあれば、どれだけ苦しんで働いても、一向に貧しい人々もいる。しかし、あらゆるすべての人間に、ある絶対数が等しく与えられている。その数字は12である。この絶対数はすべての人に不変である。例えば、ある人は何の苦労もなく楽に生きているとする。しかし、その人は絶対数12を他の貧しい人達よりも早く消費する。すなわち、その人の苦労値は10であり、12を10で割ると、12÷10=1,2である。しかし、苦労して生きている人の苦労値は70である。12を70で割ると、12÷70=0,17である。なんと、裕福な人の1,2から0,17を割ると、1,2÷0,17=7である。よって、苦労して生きている人の経験値は、楽して生きている人の7倍もあるのである。ここで、経験値=自由度を表す。よって、楽して生きている人は自由度が低く、苦労して生きている人は自由度が高い。これは例えれば、楽して生きている人の自由度は、かごの中の鳥のようなものであり、苦労している人の自由度は広々とした大自然の中でたくましく生きる野生の鳥の様である。

高田義裕の人生論

今日の格言

政治学

もし、人間が一人しかいなければ、政治など必要ないであろう。その人が好き勝手に生きても誰も文句は言わない。しかし、男と女がいる以上、子供はどんどん生まれてくるし、それにより、人間は現在の80億人近い、という膨大な集団となった。人間が二人以上いると、そこにはどうしても個性の差、すなわち、考え方の傾向の違い、価値観の違い、という軋轢が生じる。そして、遂には、互いの意見がぶつかり合い、争いが生じる。そう、それは戦争である。よって、人間という種族は戦争することから逃れられない。それは多分に人間という属性ゆえの避けて通れない宿命である。そこで、人間は互いに共存して行かざるを得ない。共存するという事は、互いの欲求を満たす事をある程度、我慢せねばならないことである。すなわち、互いに譲歩できるギリギリのライン、すなわち、停戦ラインである。それが現在の法律であったり、社会的ルールに相当するわけである。すなわち、この論法で言えば、人間にとっての自由とは、なるべく決まり事が多くない方がより、自由なのである。よって、政治的権力が強いほど、民衆の自由は束縛され、政治的権力が弱いほど、民衆はより自由に行動できるわけである。しかし、これは本当に正しいのであろうか?最近の政治の動向として、独裁権力主義の国々より、民主主義国家の内部分裂、弱体化、国力の低下が著しい。民主主義システムの根幹である選挙制度自体が崩れて来ている。すなわち、どの政党にも投票しない国民層の増加が目立ち、たとえ投票しても、意見は分断し、二極層に分かれる。これは民意が全く反映されていない事の確かな証拠であり、現実である。そう、言論の自由がある国の方が、言論の自由がない国よりも弱体化し、存亡の危機に陥っているのである。これは新型コロナウィルスという伝染病の蔓延に多くの影響を与えた。中国などの一党独裁の国家は、新型コロナウィルスの蔓延をその強力な権力によって、いち早く沈静化できた。それに対し、民主主義国家は即座な対応ができず、対処が遅れ、新型コロナウィルスの広範囲な蔓延を著しく許してしまった。なんと皮肉な事であろう。言論の自由は絶対的に正しいものではなかったのだ。むしろ、言論の自由は、情報過多な混乱を生み、緊急時に全く対応できない弱点を露呈してしまったのである。よって、人類にとって、究極であり、最後の砦であった民主主義思想も、決して万全な政治システムではなかった事が判明したわけである。むしろ、民主主義国家はいろんな価値観や思想が混在するのを許容する分だけ混乱し、まとまれ無くなり、人間社会としての明確な指標を見失ってしまうのである。つまり、過去において、民主主義国家であったドイツが戦後、強力なカリスマ的指導者ヒトラ-を産んでしまったのと同様に、現在の民主主義国家であるアメリカや日本も国民の民意に機敏に察知し、明確な指標を示してくれる、強力でカリスマ的指導者という危険な独裁者を無意識に求めるようになったとしても、少しもおかしくはないのである。よって、これからの新しくて正しい政治の在り方は、民主主義国家のような柔軟性と、独裁政権国家のような機敏性を同時に併せ持ったハイブリッド国家の建築を目指さなければならないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

エホバの証人の統治体であるヨハネ級の兄弟達へ。

親愛なる兄弟達、神エホバに忠実に使え、今もまた忠実に仕えている兄弟姉妹達に言います。なぜなら、このことを知らずにいて欲しくないからです。今から非常に重要なことを言います。それは引き続きあなた方にエホバの聖霊がとどまり続けるためです。今回新しく改定された聖書の内容がよくありません。あなた方は神に対するすこぶる熱心さと、諸国民に対する愛情の強さのあまり、この聖書をより新しく読みやすいものとして再発行しましたが、これでは神の言葉である聖書を書き換えてしまっています。これは私達の主であるイエスキリストのご意志でもなければ、神エホバのご意志でもありません。聖書の言葉を多少なりとも分かりやすさを優先するあまり、最初の忠実な聖書翻訳の精神を踏み越えてしまっています。あなた方は今一度神エホバのご意志に立ち返り、以前の新世界訳聖書の翻訳に戻すべきです。このことを言う聖書的根拠はこれです。使徒達の活動5章34節、しかし、ある人がサンへドリンの中で立ち上がった。それはガマリエルという名のパリサイ人で、民のすべてから重んじられる律法教師であったが、彼はこの人々をしばらくの間、外に出すようにと命令した。それから、彼らにこう言った。イスラエルの皆さん、この人たちをどうするかについては自分のしようとすることに注意してください。例えば、先ごろ、チウダが立ち上がって自らひとかどの者と称し、かなりの数の男たち、およそ400人がその一味に加わりました。しかし、彼は除き去られ、従っていた者たちも皆追い散らされて、跡形も無くなりました。彼の後にガリラヤ人ユダが登録のころに立ち上がり民を引き込んで自分に付かせました。ですが、その者は滅び、従っていた者も皆散り散りになりました。ですから、今の状況下であなた方に言いますが、この人たちに手出しせず、彼らをほっておきなさい。この企て、またこの業が人間から出たものであれば、それは覆されます。しかし、それが神からのものであるとしたら、あなた方は彼らを覆す事はできません。さもないと、あなた方は、実際には神に対して戦う者となってしまうかもしれません。よって、兄弟たち、私が独自の見解で言っているのかどうかをほって置き、ぜひ試しなさい。また、私もあなた方をほって置き、あなた方も試されます。いずれは聖書の記述にあるように事の是非は明らかにされるでしょう。新型コロナウィルスを思い起こしてください。それは、丁度今の新しい聖書翻訳が大々的に広められた時を同じくして、新型コロナウィルスの蔓延も始まったという事を。新型コロナウィルスは神のご意志によって、生じたわけではありませんが、あなた方の行き過ぎた行状が新型コロナウィルスに拠って阻害されたのも事実です。ぜひ、物事を多角的に見てください。例えば、あなた方はほとんど全部と言っていいほどエホバ神に忠実に使えています。しかし、ほんの少しのパン種のためにすべてのパンが発酵し、腐敗してしまうように、ほとんどの面で従順であっても、後のほんの僅かなミスのせいで、すべてが台無しになるのです。例えれば、ある商品が1000ドルで売っているとします。あなたはそれが欲しくて999ドルまで支払ったとします。あなたはそれで商品を手に入れられますか?いいえ、できません。たった1ドルのためにです。このことを示す聖書的根拠はこれです。新約聖書、マタイによる書、5章25節と26節、あなたを告訴する者とは、共にその道にある間にすばやく、事の解決に当たり、告訴者があなたを裁き人に引き渡し、裁き人が法廷に引き渡してあなたが獄に投げ込まれるようなことが無いようにしなさい。本当の事としてあなたに言いますが、価のごくわずかな最後の硬貨を払ってしまうまで、あなたがそこから出てくることは決してないでしょう。ですから、兄弟たち、今一度初心に立ち返って、神エホバに完全に忠実にあってください。もし、立ち返らないなら、神はその人を見捨て、全く別の者に自分の分を割り当てられるでしょう。なぜなら、神エホバは石からでもアブラハムを起こすことがお出来になるからです。

高田義裕の人生論

今日の格言

政治学

集積と発散

人類の歴史は乱世の歴史であった。有力な者達が全世界を支配しようと互いに戦い続け、帝国を造り、そして滅んで行った。それら英雄達の目標は、中央集権国家の樹立であった。すなわち、民衆達に対する権力を一ヵ所に集中させることだった。なぜ、そのようなことが必要だったのか?それは、この無秩序な無法地帯を1つの秩序ある平和な人類社会を実現するためであった。そう、この有象無象の人類を1つにまとめることが権力者達の目標であり、悲願だったからである。人々が好き勝手にばらばらに行動すると、あちこちで争いが生じ、治安も悪くなり、社会は大混乱に陥る。よって、この乱世の世を1つに統治しようとする権力の集中化がどうしても必要不可欠であったのである。人間には、多数の人々をまとめる力のあるリーダーが必要であり、それこそが、人類平和のカギを握っていたからである。しかし、権力の一極集中は1つの大きな弊害をも生んだ。それは、都市国家を形成し、地方の過疎化と大都市の過密化である。都市に富の大半が集中し、都市から遠く離れた地方は貧困化し、いずれは地方部族の不満と怒りが蓄積し、最後には反乱に発展した。これは現代の会社の例えで言えば、現場のことを、いちいち上層部へ指示を仰がなければ、何もできない日本の会社と似ている。しかし、現場のことを一番よく知っているのは、実際に現場で働いている人間なのであり、涼しい豪華な部屋であぐらをかいてペルシャ猫を撫でながら、上等なワインを飲んでいる現場のことを何も知らない上層部ではないのである。こんな会社はいずれ、潰れるのであり、そうしないためには、現場の人間が現場のことを取り仕切る権威を与えられてしかるべきである。古今東西、すべての帝国が衰退し、滅んで行ったのは、権力の集中により、末端の人々の現状を全く知らないで、たいそう裕福な権力者が全く見当違いな指示を下すことによる混乱であり、民衆による反乱が原因であった。そう、すべては権力者の貴族化であり、貴族政治にあったのである。このように、世の中をまとめる点において、権力の一極集中は非常に有益であるが、ある程度、社会がまとまりを見せ、安定していくにつれて、権力の一極集中は、貧富の差を増大させる害悪でしかなくなるのである。すなわち、政治の本質とは、権力の集積と発散の周期の繰り返しに他ならない。すなわち、正しい政治の在り方とは、富と権力の集中期間を50年とし、その後は、富と権力の分散期間を50年とする、周期性に変えねばならないということである。すなわち、大きな政府から、小さな政府による転換である。しかし、現実は、富と権力の一極集中化による既得権益層が富をいつまでも独占したいがために、中央集権国家をいつまでもだらだらと続けるから、すべての国家は必ず衰退して行くのである。現在の日本も正にその状態にあり、東京という大都市による富と権力の一極集中を止めず、地方にもっと、権限や富を分散しないことにより、弊害が生じ、その結果、賃金はいつまで経っても上がらず、日本社会は衰退し、日本銀行はゼロ金利を続けざるをえなくなっている。そのため、海外の投資家達は当然、儲からない円を捨てて、金利の高いドルを買う動きに出るのであり、それにより、円安となり、円の価値はますます下がって行くのである。いずれ日本国家は、デフォルトし、過去の帝国のように滅亡する運命を辿るのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

答えを求めてはならない。

我々は常に答えを求めている。最高の人生とは何か?最善とは何か?最も効率の良いやり方は何か?どうすればもっと儲かるか?すなわち、我々は常に正解という終着点を追い求めているのである。我々は各々、自分の人生の最高を求めて必死に働き、苦しみもがく。全人類の歴史もそうであった。人類は自分達の真の居場所、もしくは帰るべきホームを求め、もがき苦しみ、戦い続けてきた。それでも得られません。私達はもがき続け、戦い続けます。最高の自分になりたい。最高のパートナーと巡り会いたい。これこそ、人類の大きな歯車を回す原動力であり、個人個人のモチベーションを保つ唯一のエネルギーであり、本能であり、欲望であることを。例えば、科学者達はこぞって物質の最小の単位を求めている。何が存在の究極の形であり、原因であるかと。では、素粒子は最小であり、全物質を成り立たせている究極の答えなのか?いや、決してそうではない。素粒子の先にはもっと小さい無限の粒子が存在しているのである。これは追い求めても切りのない永遠のループである。例えば、我々はすべてを知りたいと思い、更なる富を追い求める。そう、すべてのものを自分の場所に集中してかき集めたいのである。では実際にはどうか?ガラスコップに水を溜められるのは、ガラスコップの粒子が世界で一番小さいからではない。それはあくまでも、水の粒子よりガラスの粒子の方が小さいから水を溜めておけるだけのことである。すなわち、それらは、比較した相対的関係を利用した、に過ぎないからである。よって、私達は自分の人生を成功させる近似値は知ることは出来ても、自分の人生を成功させる正解値は知ることはできないのである。すなわち、今、我々が自分の人生において、もがき苦しむ原因ともなっている苦しみを取り除く、はっきりとした解決方法を知ることはできないということである。我々の現実世界は、もっと曖昧模糊としており、はっきりとした右でも左でもない曖昧な座標軸しか示してくれないのである。正にここにこそ、究極の存在である神が必要となってくる必然的理由がある。我々は皆、人生という迷路のただ中にいる。自分の目の前にある壁は、途方もなく高くて大きく、どちらの方向に行けば出口に出られるのか、見当もつかない。しかし、神はそれらより遥かに高い天から迷路を見下ろすことができる。そう、我々の人生という迷宮の答えは神のみぞ知る、ということなのである。よって、全人類は各自すべて、唯一であり、真の神であるエホバに自分の人生の正しいルートを案内してくれるナビゲーターとして、彼に指示を仰ぎ求め続けていかなければならないのである。もし、それをあえて無視して、自分の気持ちの赴くままに進めば、この人生という途方もなく大きくて、複雑な迷路から脱出できなくなるどころか、いつかは必ず行き詰まって、後戻り出来なくなり、永久にさ迷ってしまうことになるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神への信仰と強迫観念

神という存在には、常に従順さが求められる。すなわち、神の掟を守り行う事が責務とされる。ここに1つの落とし穴がある。例えば、神を信仰している者は皆、善行を行わなければならないというのは、通例であり、典型的な例である。よってもし、善行を行わなければ、神からの祝福は断たれるというわけだ。よって、信者は神が守り行わなければならない務めを軽視したり、実行しなければ神からの祝福を失ってしまうと感じる。いや、たとえ実行しても、それを形式的に行い、真心が伴っていないと本人が自覚しているなら、その信者は何か後ろめたい気持ちになり、自分が神に対して悪いことをしていると感じ、不安に襲われる。これは正に強迫観念に駆られている証拠である。もし、悪いことが自分の身に起こったならば、それは自分の信仰心が足りないから、自分の身に不幸が襲うのだと思い込み、さらに神に対して負い目を感じ、無理をし、自分を責め、もがき苦しむ。そう、その強迫観念が信者を虜にして信仰中毒に陥るのである。これは神の御意志に調和して行動していた頃の過去の成功体験が大きければ大きいほど、その強迫観念も大きくなるのである。これがカルト宗教の洗脳の恐ろしさである。しかし、ここで勘違いしてはならない。真の神は、あなたが神の掟を守ろうが、守らないだろうが、あなたに懲罰を与えたりは決してしない。真の神はたとえあなたがどれだけ悪い状態にあろうとも、常に分け隔て無くあなたを祝福してくださっているのである。よって、あなたの忠誠心が足りないから、もっと神を信じなさい、とか、神のために、私産をすべて投げ出しなさい、そうすれば救われます、などと言う者達に用心しなさい。彼らは正に羊の皮をかむった狼だからである。正にあなたの弱みや、弱点に付け込んで金品を奪う悪魔の手先達なのである。真の信仰心とはそのようなものではない。しかし、こうも言える。強迫観念に駆られているうちはまだ、ましであると。なぜなら、そこには神に対する良心がまだ残っているからであると。もし、悪いことをしても、神に対して何の負い目も感じないのであれば、それはもはや信者ではなく、悪いことをしても平気な悪人と同じであると。では、本当の信仰心とは何か?それは神を愛することである。神はその様な辛辣な神ではないことを信じる事であり、たとえ、神に対する信仰の故に災いに遭ったとしても、神のせいにはしない、と言う強い決意であり、神はいつでも善良な方であることを信じぬく勇気の事である。正に聖書にこう書かれてある。ヤコブへの手紙1章13節、試練に遭うとき、誰も私は神から試練を受けている、と言ってはなりません。悪い事柄で神が試練に遭うということはありませんし、そのようにして、ご自身が誰かに試練を与えることもないからです。むしろ、各々自分の欲望に引き出されて誘われることにより、試練を受けるのです。

高田義裕の人生論

今日の格言

我々の世界は本当に存在しているのか?

存在しているという事はどういう事なのであろうか?例えば、腕力というものを基準として考えるならば、ジョンソン氏が腕力において、スミス氏には敵わない場合、あくまでも腕力において、スミス氏にとって、ジョンソン氏は存在しないにも等しいであろう。しかし逆に、ジョンソン氏にとって、スミス氏は強力な存在であろう。また、1は0よりも大きいから、0から見れば、1は確かに存在するが、1000にとっては1はあまりにも小さいので、無視できるほどに存在しないと言っても良いだろう。このように、存在すると言えるためには、ある物体に対して、互いに共通な基準という視点が明確でなければならないのである。すなわち、共通な基準という視点、例えば、腕力で言えば、スミス氏はジョンソン氏よりも遥かに存在しているのに対し、基準の視点を全く切り替え、頭の良さという尺度において、ジョンソン氏の方がスミス氏より断然、賢いのであれば、頭の良さという基準では、スミス氏はジョンソン氏よりも遥かに存在しにくいと言えるのである。このように、存在するという事は、測りにかける性質によって、存在したり、存在しなくなったりするのである。要するに、存在するという事は、あくまでも、ある2つ以上の任意の性質における相対的に比べた場合の大きさや量の大小という濃度によって、変幻自在に変化する不安定な化学反応のようなものでしかないという事である。では、この私達の生きている全世界を見渡して見れば、万物すべてに共通する普遍的、真理的、絶対的基準の視点など存在するであろうか?そんなものは存在しないのである。なぜなら、もし、すべての人間に当てはまる黄金律が存在したなら、我々の世界はもっと秩序正しく、過ごしやすい平和な世界であるはずである。しかし現実は、もっと曖昧模糊としており、人類は共に一致するどころか、様々な憶測や、思想、思考、情報で混乱しており、人間社会は、精神的、もしくは身体的暴力で溢れかえっているからである。よって、結論として、この我々の住む全世界は本当に存在しているかは、全く分からないのであり、全創造物を造った創造主という神の存在でも認めない限り、この全世界はまだ、生まれてもいないのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

すべての人間は優しくて、思いやりのある人間であるべきか?

ほとんどすべての人は、相手の人間の性格に対して、優しくて、思いやりのある態度を望んでいる。では、人間にとって、優しいとか、思いやりがあることが絶対的に正しい根拠はどこにあるのだろう。例えば、世界中から非常に優秀で頭のいい人達を集めたとする。そして、その集団だけで1つの社会を構成し、一緒に暮らすことにする。すると、本来、その人達はすべて非常に優秀なので、物事も、一番優秀で、効率の良い理想的社会が実現しそうなものである。だが、現実は決してそんなことにはならない。なぜなら、非常に優秀な集団の中でさらに秀でて優秀な者が出てくるからであり、そこから、さらに差が生じてしまうからである。よって、あらゆるすべての人間に当てはまる頭の良さの絶対的基準があるわけでは決してないからである。ただ、あるとするなら、AさんはBさんより優秀であるとか、CさんはDさんより、機転が利くとか、Eさんの方がFさんより優しいとかの相対的な印象でしかないのである。そう、優しさとか、思いやりという概念は、存在の確かさなどではなく、もっと曖昧模糊とした印象という度合い、もしくは、濃度の違いに過ぎないのであって、決して普遍的価値、もしくは真理ではないということである。すなわち、非常に頭のいい集団の中から、さらに頭のいい人間が選別されていくように、それ以外の他の頭のいい人は、その人より、愚かであると言えるからである。よって、結論として、何が優しくて、何が思いやりがあるか、などという命題は真ではなく、偽である。言い換えれば、それらの定義はあくまでも、大小の差、濃度の差に過ぎないのであって、その初めから、すべての人間は優しくて、思いやりのある人間になるべきである、という命題自体が成立し得ないのである。そう、その問いかけ自体が最初から間違っているのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

倫理学序説

真の権威とは何か?それは同胞を殺すことである。例えば、ネズミが同胞であるネズミを殺すことはないし、またそれは許されない。ネズミを殺して食うものは、常にネズミより上位な存在である猫であり、鷹であり、ライオンである。これは言い換えれば、猫や鷹やライオンはネズミを殺す権威を持っているということである。よって、人間にとって、同胞の人間を殺すことを正当化できる、いかなる正義もいかなる偉大な思想も持ってはいない。よって、真の正義とは、正義のために正義を犠牲にしないことである。すなわち、人の命を救うために人の命を犠牲にしないことである。それでは人を殺す権威を持っているのは誰か?それは神である。なぜなら、神は人間より遥かに上位な存在であるから。