高田義裕の人生論

今日の格言

人はよく公平に、フェアーに物事を決めましょう、と言うが、およそこの世に公平でフェアーな立場にある人間など1人もいないのである。例えば、私は何も悪い事をしていないからフェアーな立場であると言っても、その人が生きていけるのは仕事をしているおかげで給料を貰って生活しているのであり、その仕事自体がすなわち、その人の勤める会社がある政治組織と深い関わりを持っていたり、そして、その政治組織は世間では右翼派として社会に影響を及ぼしている場合がある。すなわち自分には直接関係のないところであなたは意識していなくても、左翼派か、右翼派かのどちらかに身を守ってもらっているのである。いくら私は右翼派ではないと言っても、自分の勤める会社が右翼派と仲良くしているのであれば、あなたは世間的から見て、望まない右翼派なのである。同様に自分は左翼派ではないと言っている人がいても、自分の勤める会社が左翼派と仲良くしているのであれば、あなたは世間的から見て、望まない左翼派なのである。要するに左翼派でも無く、右翼派でもないと本人はどれだけ思っていても、結局はどちらかに傾いているのである。よって、誰も公平で、どこにも所属していないフェアーな立場など初めから持っていないのである。すなわち私達は他の誰の立場をも批評など出来ないのであり、人間が物事を公平にフェアーに決める事は出来ないのである。ただあるとすれば、その時勢での人気のある考え方なり、理想なりがその時勢での公平でフェアーな立場とすり替わっているのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人が教える者になるためには、まず、学ぶ者にならなければならず、人が与える者になるためには、まず、恵んで貰わなければならず、最初になるためには最後とならなければならないのである。すなわち、最も偉い者になるためには、まず、最も惨めな者にならなければならないのである。

2.すべての物事の本質的様相とは、何か究極的には絶対的な不動の大法則がすべてを支配し、永久に変化しないという状態なのでは決して無く、すべては相対的であり、優劣の関係であり、勝敗の関係であり、大小の関係であり、常に動いて止まない変動の状態になっている事がこの万物のすべての様態なのである。すなわち、地球はその上で生きている生き物すべてにとっては不動であるが、さらに地球に勝った太陽が地球にとって不動の存在であり、地球は太陽を中心に猛スピードで動いているのであり、また、太陽より勝った銀河系が太陽にとって不動の存在であり、太陽は銀河系を中心に猛スピードで動いているのであり、銀河系より大きい超銀河団が銀河系にとって不動の存在であり、銀河系は超銀河団を中心に猛スピードで動いているのである。このようにすべては相対的関係であり、この関係が延々と無限に広がっている状態が我々の生きている世界なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

簡単な仕事をいくら沢山やっても、難しい仕事を1つやった事にもならない。しかし、逆に、非常に難しい仕事を1つでもすれば、簡単な仕事を何十回やった事に等しくなる。なぜなら、難しい仕事は体も頭も良く使わなければならないから、その分能力が付いて、何事にも融通のきくようになるからである。

2.人生の知恵として、人間は表面的に見せるだけでも良いから、自分が出会うすべての人間と仲良くなっておくべきである。すなわち、誰かに仕事の事で怒られても、素直に相手の言う事を受け入れる姿勢であり、自分の目から見て、誰かが、仕事もせずにぶらぶらしているところを見て、それに憤りを抱いてその人を非難しない事であり、人の話をつまらなくても最後までよく聞いてあげる事などである。なぜならあなたはいつ自分が予想もしていないアクシデントに見舞わられるかわからないからである。そういった自分が窮地に追い込まれ弱い立場に立った時、あなたはすべての人に対して仲良くしていたおかげで、予想もしていない人に同情心によって助けもらえるからである。その相手は、今まで自分が憎んでいた人の上司かもしれないし、普段心の中でバカにしていた人の友人かもしれないのである。すなわち私達にとって世間は狭いのであり、どこでどう人と人とが繋がっているかはわからないのであり、同じ地域で生活していれば、どこかしらで繋がる接点を持っているからである。よって、自分の言動を注意深く選んで、常に人とのトラブルを自分が謙虚になって、たとえ自分が悪く無くても、相手を罵ったりせずに、うまく丸く収める事によって結局は回り回って自分の身を守っている事になるのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人生、自分の為だけに生きる、という事が本来の答えであり、正論なのである。よって、私は子供の為に生きるとか、私は恋人の為に生きるとか言うのは、逃げであり、心理的に逃避行動なのである。なぜなら自分という存在に意義が見出せない事を、きれい事のように言い訳して自分を欺いているからである。そんな人間に恋人が出来るわけがないし、子供を真っ当に育てられるわけがないのである。

2.最も賢い者とは、自分の強みと自分の弱みをちゃんと理解している人間の事を言うのである。そうすれば、自分が苦手な事には手を出さずに自分の身を守れるし、自分が得意とする事にはとことん攻めの姿勢で取り組み、利潤を自分のものとする事が出来るのである。

3.何事も苦しい思いをしなければ、本当の有り難さも知る事は出来ないし、真の幸福感もまた味わえないのである。

4.周りの物事を自分の希望的推測で見たり、判断しないこと。その自分の心の弱さを捨てて、実際の現実を直視する覚悟と勇気を持たなければならないのである。ここで現実とは、決して美しいものでは無く、もっと冷淡で残酷で生々しいものなのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

探求していく手順さえ誤りがなければ、すべての事柄は解く事が可能であること。

2.道に迷ったら、現実を直視するようにせよ。そうすれば道を踏み外す事はない。

3.人を真に動かすものは純粋な愛であり、圧力や威力や権威や相手に対する借りではないのである。

4.私達は自分のことよりもまず、神の方を愛さねばならない。

5.相手に好意を持てば、相手も自分に好意を持ってくれるのであり、逆に、相手に悪感情を抱くならば、相手も自分に悪感情を抱くようになるのである。

6.自信は誰かから授けられる性質のものではなく、あくまでも、自分から努力して培わなければ得られないものである。

7.まず、自分が楽しんでいなければ、相手をも楽しませる事は出来ないのであり、まず自分が満たされていなければ、相手をも満足させる事は出来ないのであり、まず自分が幸福でなければ、相手をも幸福にさせる事は出来ないのであり、まず自分を愛する事が出来なければ、他の人をも愛する事は出来ないのである。

8.すべてを知っていて、真に賢いという事の定義とは、何を知っておくべきで、かつ何を知るべきでないかを初めから全部知っている状態の事を初めて指すのである。よって私達は何でも知りたがる傾向にあるから、私達は永久に賢くなれないのである。

9.自分の望むままに欲求を満たす事が、必ずしも自分にとっての幸福となるとは限らないこと。

 

 

高田義裕の人生論

今日の格言

実は私達人間は既にすべての事を知っている。なぜそう言えるか。例えば、あるイタリア人が日本語で、私、日本語全然分かりません。と言ったとする。彼は日本語によく通じているのである。また、ある人が、私は今何も喋っていません。と言ったとする。彼は喋っているのである。同様に、私達は何も分かりませんと言ったとする。すなわち、私達は何もわからないという事を知っているのである。すなわち、わからないという事を知っているという事は、日本語で日本語の事を全然分かりません、という事と同じであり、かつ、私は今何も話していません、と言って話している事と同じなのである。要するに、人間が知識を探求し、知恵を模索するという行為は、人間が何かを観察して理解を得るという外部からの作用なのでは決して無く、あくまでも、自分の意識していない深層心理からすでに知っている知識を汲み出す内部の行為なのである。よく、何でも発明や発見をする人がずっと考えていると夢の中で解答を得るという事がある。それはよく考える事によって、本来自分の中に眠っている知識を顕在化させているという事なのである。 “高田義裕の人生論” の続きを読む

高田義裕の人生論

今日の格言

なぜ人の成功を妬んでしまうのか。

人はなぜ人の成功を妬んでしまうのか。それはあなたがただ漠然と生きている証拠である。生活の為に仕方なく仕事をし、これといった目標も無く、何かに打ち込む事が無いからである。だから人の成功を見ると、自分が惨めに感じられて妬みを持ってしまうのである。よって私達は他の人の頑張っている姿を妬みではなく、純粋に素直に褒める事の出来る立場にならなければならない。そう、自分も何か必死で打ち込める趣味なり、目標なりを定めて頑張ってみるのである。そして自分も全力で打ち込んでいるうちに成功する事がいかに難しいかを身をもって実感出来るようになる。それでたとえ成果が出なくても自分はこんなに頑張っているのだから、成果が出なくてもそれを肯定的に認める事が出来るようになる。なぜなら、あなたは成功しようがしまいが、同じく頑張っている人間の1人に違い無いからである。すなわち立場的には、頑張って成功した人達と同じ土俵にいるからである。いわゆる、あなたは今までマラソンの観戦者であって、そこからマラソン選手を見ながら彼らの頑張りを妬んでいた立場から離れ、自分もマラソン選手として人生の走者という選択をしたからである。マラソン選手のすべてはたとえ最下位にいようとトップにいようと、マラソン選手としての立場は同じである。たとえマラソンに出て、最下位になっても自分は全力を尽くしたという満足感が得られ、人生を確かに生きているという実感を味わう事が出来る。そして優勝したマラソン選手の事を実感を持ってすごい人だ、と認める事が出来るのである。よって、観客席に座るのはもうやめて、自分も現役の選手になれば良いのである。そうすれば成果は出なくても人の成功を妬むという事が自然と心から無くなるからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人間関係は逆説的ではあるが、一回腹を割った喧嘩をしなければ、本当に心を許せる仲間にはなれない。喧嘩とは暴力の事ではない。確かに喧嘩に暴力は付き物であるが、暴力=喧嘩では無い。喧嘩=本気と本気の真正面からのぶつかり合いである。暴力とは常に邪悪である。すなわち、それは互いの正面攻撃という形を取らない。暴力はいつもテロリズムであり、一方的な押し付けであり、正々堂々とした正面攻撃では無く、相手の隙を突く卑劣で卑怯な形を取る。そこに公平さは無いのだ。しかし大人の喧嘩は互いの全力を真正面から堂々と掲げて戦う真の男と男のアイデンティティのぶつかり合いなのだ。そこには常に純粋な男気と言うフェアー精神がある。だからこそ、戦った後でも仲良くなれるのだ。しかし現代社会は陰湿ないじめや、奇襲攻撃的な、最初から相手を殺すだけの目的で行われる残虐なものとなっている。そこには話し合いや対話というものを真っ向から否定してただ殺しあうという図式しか無い。これはもう喧嘩ではない。殺人行為そのものである。この世の中に純粋な喧嘩が無くなってきているという事は、互いの人間関係も希薄で薄っぺらいその場限りの表面的なものでしか無くなってきている証拠でもある。一度自分に問いただして見ると良い。自分には本当に心を許せる仲間がいるかという事を。

高田義裕の人生論

今日の格言

同様の事柄に関して、間接的に見聞きして知る場合と、直接的に自分の事柄として直に経験して知る場合とでは、その同様の対象に対して自分が受ける影響力とは全く別のものである。

2.何が正しい事か、もしくは誤りであるかを判断するための材料は、その判断を下すべき対象が、自分の心にとって果たして貪欲的であるか、それとも自分の心にとって利他的に根ざしたものであるかという視点から吟味する事によって識別する事が出来る。

3.何事もうまく行っている事が当然のようになっている状態とは、実際の人生という全体から見れば、非常にまれで恵まれた状況であるのである。よってそれを当たり前のように見なさず、それを数少ないチャンスだと思って、うまく行っているうちにその上昇気流に乗らなければならない。そうすれば、あとは自然の流れに任せて順調な状態を長く維持する事が出来る。しかし、そのうまく行っている状況を当たり前のものと見なし、うまく行っている間にその上昇気流に乗るための努力を怠ってしまうならば、その幸運の時期もいずれは過ぎ去り、あなたはそれを活かす事なく、また元の普通の状態に戻ってしまうだけなのである。すべて成功者はその好機のチャンスを見逃さず、自然の摂理の大きな流れに逆らわず、その流れに乗って、それを積極的に活用して2倍にも3倍にも増やした人達ばかりなのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

マニュアル人間になってはいけない。なぜなら、人生にマニュアルは無いからである。仕事をする時、よくマニュアルが書いてあるが、それはあくまでも、仕事をなかなか覚えられない人の為に、必要最低限の知識を箇条書きにしたものに過ぎないのであり、マニュアルに書いてある事しかしない人間になってはいけないのである。すなわち、与えられた仕事をただこなすだけの従業員であっては、これから先の世界情勢では生き残っていく事は出来ないからである。すなわち、仕事をするにしても、常にどうしたらもっと効率良くできるかを常に考えながら、自分だけの独自の方法を模索し、工夫する人間にならなければならないのである。そういうサバイバル精神を今のうちに培っておけば、いざ世界情勢が劇的に変化した時でも、自分の頭で考える訓練が出来ているから、様々な状況の変化に機敏に対応出来るようになるのである。すなわち、お金を持っている事が人間の勝利者なのでは決して無く、常に自分の頭で考え、機敏に行動出来る者が人間の勝利者なのである。