高田義裕の人生論

今日の格言

実は私達人間は既にすべての事を知っている。なぜそう言えるか。例えば、あるイタリア人が日本語で、私、日本語全然分かりません。と言ったとする。彼は日本語によく通じているのである。また、ある人が、私は今何も喋っていません。と言ったとする。彼は喋っているのである。同様に、私達は何も分かりませんと言ったとする。すなわち、私達は何もわからないという事を知っているのである。すなわち、わからないという事を知っているという事は、日本語で日本語の事を全然分かりません、という事と同じであり、かつ、私は今何も話していません、と言って話している事と同じなのである。要するに、人間が知識を探求し、知恵を模索するという行為は、人間が何かを観察して理解を得るという外部からの作用なのでは決して無く、あくまでも、自分の意識していない深層心理からすでに知っている知識を汲み出す内部の行為なのである。よく、何でも発明や発見をする人がずっと考えていると夢の中で解答を得るという事がある。それはよく考える事によって、本来自分の中に眠っている知識を顕在化させているという事なのである。 “高田義裕の人生論” の続きを読む

高田義裕の人生論

今日の格言

なぜ人の成功を妬んでしまうのか。

人はなぜ人の成功を妬んでしまうのか。それはあなたがただ漠然と生きている証拠である。生活の為に仕方なく仕事をし、これといった目標も無く、何かに打ち込む事が無いからである。だから人の成功を見ると、自分が惨めに感じられて妬みを持ってしまうのである。よって私達は他の人の頑張っている姿を妬みではなく、純粋に素直に褒める事の出来る立場にならなければならない。そう、自分も何か必死で打ち込める趣味なり、目標なりを定めて頑張ってみるのである。そして自分も全力で打ち込んでいるうちに成功する事がいかに難しいかを身をもって実感出来るようになる。それでたとえ成果が出なくても自分はこんなに頑張っているのだから、成果が出なくてもそれを肯定的に認める事が出来るようになる。なぜなら、あなたは成功しようがしまいが、同じく頑張っている人間の1人に違い無いからである。すなわち立場的には、頑張って成功した人達と同じ土俵にいるからである。いわゆる、あなたは今までマラソンの観戦者であって、そこからマラソン選手を見ながら彼らの頑張りを妬んでいた立場から離れ、自分もマラソン選手として人生の走者という選択をしたからである。マラソン選手のすべてはたとえ最下位にいようとトップにいようと、マラソン選手としての立場は同じである。たとえマラソンに出て、最下位になっても自分は全力を尽くしたという満足感が得られ、人生を確かに生きているという実感を味わう事が出来る。そして優勝したマラソン選手の事を実感を持ってすごい人だ、と認める事が出来るのである。よって、観客席に座るのはもうやめて、自分も現役の選手になれば良いのである。そうすれば成果は出なくても人の成功を妬むという事が自然と心から無くなるからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人間関係は逆説的ではあるが、一回腹を割った喧嘩をしなければ、本当に心を許せる仲間にはなれない。喧嘩とは暴力の事ではない。確かに喧嘩に暴力は付き物であるが、暴力=喧嘩では無い。喧嘩=本気と本気の真正面からのぶつかり合いである。暴力とは常に邪悪である。すなわち、それは互いの正面攻撃という形を取らない。暴力はいつもテロリズムであり、一方的な押し付けであり、正々堂々とした正面攻撃では無く、相手の隙を突く卑劣で卑怯な形を取る。そこに公平さは無いのだ。しかし大人の喧嘩は互いの全力を真正面から堂々と掲げて戦う真の男と男のアイデンティティのぶつかり合いなのだ。そこには常に純粋な男気と言うフェアー精神がある。だからこそ、戦った後でも仲良くなれるのだ。しかし現代社会は陰湿ないじめや、奇襲攻撃的な、最初から相手を殺すだけの目的で行われる残虐なものとなっている。そこには話し合いや対話というものを真っ向から否定してただ殺しあうという図式しか無い。これはもう喧嘩ではない。殺人行為そのものである。この世の中に純粋な喧嘩が無くなってきているという事は、互いの人間関係も希薄で薄っぺらいその場限りの表面的なものでしか無くなってきている証拠でもある。一度自分に問いただして見ると良い。自分には本当に心を許せる仲間がいるかという事を。

高田義裕の人生論

今日の格言

同様の事柄に関して、間接的に見聞きして知る場合と、直接的に自分の事柄として直に経験して知る場合とでは、その同様の対象に対して自分が受ける影響力とは全く別のものである。

2.何が正しい事か、もしくは誤りであるかを判断するための材料は、その判断を下すべき対象が、自分の心にとって果たして貪欲的であるか、それとも自分の心にとって利他的に根ざしたものであるかという視点から吟味する事によって識別する事が出来る。

3.何事もうまく行っている事が当然のようになっている状態とは、実際の人生という全体から見れば、非常にまれで恵まれた状況であるのである。よってそれを当たり前のように見なさず、それを数少ないチャンスだと思って、うまく行っているうちにその上昇気流に乗らなければならない。そうすれば、あとは自然の流れに任せて順調な状態を長く維持する事が出来る。しかし、そのうまく行っている状況を当たり前のものと見なし、うまく行っている間にその上昇気流に乗るための努力を怠ってしまうならば、その幸運の時期もいずれは過ぎ去り、あなたはそれを活かす事なく、また元の普通の状態に戻ってしまうだけなのである。すべて成功者はその好機のチャンスを見逃さず、自然の摂理の大きな流れに逆らわず、その流れに乗って、それを積極的に活用して2倍にも3倍にも増やした人達ばかりなのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

マニュアル人間になってはいけない。なぜなら、人生にマニュアルは無いからである。仕事をする時、よくマニュアルが書いてあるが、それはあくまでも、仕事をなかなか覚えられない人の為に、必要最低限の知識を箇条書きにしたものに過ぎないのであり、マニュアルに書いてある事しかしない人間になってはいけないのである。すなわち、与えられた仕事をただこなすだけの従業員であっては、これから先の世界情勢では生き残っていく事は出来ないからである。すなわち、仕事をするにしても、常にどうしたらもっと効率良くできるかを常に考えながら、自分だけの独自の方法を模索し、工夫する人間にならなければならないのである。そういうサバイバル精神を今のうちに培っておけば、いざ世界情勢が劇的に変化した時でも、自分の頭で考える訓練が出来ているから、様々な状況の変化に機敏に対応出来るようになるのである。すなわち、お金を持っている事が人間の勝利者なのでは決して無く、常に自分の頭で考え、機敏に行動出来る者が人間の勝利者なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

(題名)      完璧主義の不条理

何事も完璧という事は無い。それで私達は心の潔癖症を治さなければならない。例えば、車を走らせるにはガソリンが必要であるが、ガソリンを満タンに入れれば、それで完璧なわけではない。なぜなら、ガソリンを満タンに入れた分、車体の重量はそれだけ重くなって、それだけ燃費が悪くなるからである。また、お金をできるだけ多く稼いでも、それで完璧なわけではない。なぜならお金を多く稼ぐほど所得税も多く取られてそれだけお金の量が減ってしまうからだ。このように何かの目的のためにα要素が必要不可欠であっても、そのα要素を多く摂取すれば、その目的が最大値を摂るわけでは決してないからである。すなわちある目的をΩとすると、それを組成させるのにαが必要である。つまりΩ+α=Ω+nである。このnを無限に増やして行っても、つまりΩ+α=Ω+(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,,,,,,n+1,n)として行っても、Ωは最大値にはならないのである。すなわち、ある有限定数n=βを超えたら、むしろ効果は無限に収縮(減少)するのである。よって、Ωの最大値=Ω+βであるという事である。逆に言えば、Ωの最小値=Ω+(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,,,,,,n+1,n)であり、これを不等式で表すと、Ω+β>Ω+(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,,,,n+1,n)であるという事である。これは身近に言えば、健康になりたいと思って適度にランニングするのは良いが、ランニングし過ぎると体を壊してしまう事と同様である。この適度な加減こそ、ここで言う有限定数βになるわけである。よって人は幸せになろうとすればするほど、不幸になって行くのであり、人は幸福になるためには無理をせず、適度に頑張る事によって初めて幸福になれるという事である。それで私達はあらゆる事に対して節度を保ち、完璧主義という心の潔癖症に陥らないようにすべきである。

 

 

高田義裕の人生論

今日の格言

人は自分が受けるよりも、他の人に与える方を自分にとって苦痛でなくなる様に訓練しなければならない。そしてその段階から与える事を自分にとって当たり前になってしまう様にし、最終的にはそれが自分にとって喜びとなるようにまで自分を訓練し続けなければならない。

2.人間はたとえ10回失敗しても、11回目に成功すればそれで良いのである。何が重要であるかと言うと、努力し続ける事が重要なのである。

3.世の知恵、すなわち人間から出た知恵は、神エホバから見れば全く愚かな事である。

4.人にとって他の人から正当な評価を受けたいと思うのは正常な事である。しかし、自分の名を大いなるものにしようという欲求は利己的なものである。

高田義裕の人生論

今日の格言

人よ、継続は力なり、なのである。あなたは今している事を諦めずに続けて行きなさい。何事も続けていく事が大事であり、続けていけばいずれ必ず良い事があるからである。

2.思考停止人間になってはいけない。人間は常に考え続けねばならない。1つの価値観にこだわってこれで十分である、と思った時から人は考えなくなるからである。よって、常に常識を疑い、既成観念を再吟味し、常に工夫して新しい事を開拓していく精神を培わなければならない。人間にとって思考停止する事は、廃人になる事に等しいからである。よって、人は常に考えて、考えて、考え続けなければならないのである。

3.    (題名)   一番強いのは誰か。

全世界で一番強いのと、相手が強くなればなるほど、自分も強くなる事とは一体どちらの方が強いのか。では現段階の全世界をαとしよう。あなたはα世界で一番強いとする。しかし世界は常に向上し変化し続けていくから、1年後には、α+1となっている。これを不等式で表すとα<α+1となり、あなたの強さは1つ減って、α-1となる。すなわち、ある時点で世界一でも、時間が経てば、あなたは世界一ではなくなってしまうのである。それに対して戦う相手がαとしよう。あなたは相手が強くなればなるほど、さらに強くなるのだから、あなたはα+1となり、不等式で表すとα<α+1となる。しかし相手は常に向上し変化し続けていくから、相手は1年後にはα+1となっている。しかし相手が強くなると同時にあなたもまた強くなるから、あなたは(α+1)+1となり、α+2となる。すなわち不等式で表すとα+1<α+2である。すなわちあなたは常に一番強いという事になるのである。これを一般式で表すと、(α+n)<(α+n)+1となる。nとは1.2.3….n-1.nの事であり、無限級数である。この様に絶対値よりも相対値の方が永遠に安定する場合があるという事である。

高田義裕の人生論

今日の格言

人生を送る点で何事も否定的に見るより、肯定的に見る事は大きな利得の手段である。例えばコップに水が半分入っている。Aさんはそれを見て、もう半分しかないと否定的に見る。また別のBさんはそれを見て、まだ半分も入っていると肯定的に見る。この違いは大きい。なぜならAさんはそのコップに入った水を不満気に思いながら飲むだろうし、Bさんはそのコップに入った水を楽しみながら飲むからである。不満は精神のストレスとなって少しずつ鬱積していく。そして些細なストレスの積み重ねが大病を引き起こしたり、心の病を誘発する。だからAさんはこう思うべきなのである。もうコップに水が半分しかない。それではこの貴重な水をじっくりと味わって楽しむ事にしよう。こう考えれば心にストレスが溜まる事がない。よって人生においても、ある人は年収800万円を貰っている。しかしその人が私は年収800万円しか貰っていないと考えたなら、その人には不満が溜まりストレスとなる。しかしまた別の人が、年収200万円を貰っている。しかしその人は年収800万円も貰っている人を見て、悔しがったり、妬んだりする事なく、その人が年収800万円も貰っている事を自分の事の様に喜んであげる。彼は私より難しくて辛い仕事をしているからそれだけの報酬が貰えるのだ、なんと有能な人だろうとその人を褒めるのである。そして自分はたとえ年収200万円しか貰っていなくても、自分は自分の能力に応じてその金額は妥当なものだ、としてそれで満足する。それで彼はストレスを感じたりしないため、ストレスが溜まって病気になったりする事がない。よって何事も肯定的に考えよう。たとえ大きな災いや苦難や不幸に見舞われたとしても、それを否定的に捉え、悲観するのではなく、災いを転じて福となすという、したたかな精神を持って事に当たり、苦難は自分の内面を成長させてくれる絶好の機会だと捉え、肯定的に捉え、私は不幸でも、自分より不幸な人はいっぱいいると考え、不幸な人全般を自分の肉親の様に感じて、共に苦しみを共有する態度を培うのである。その様に物事を楽観的にポジティブに考える事によって、その良い心の些細な積み重ねが最終的には幸運を呼び寄せ、物事が順調にいく様になるからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

他の人に自分をどこまで見せればよいか。普通の人は自分の良いところだけを見せる。義人は自分のありのままを見せる。聖人は自分の見られたくないところだけを見せる。神は自分の悪いところだけを見せる。すなわち、人格が上位の存在ほど、自分を他の人より低く見せるのである。