高田義裕の人生論

今日の箴言

神学序説

初めに、全知全能であり、私達の創造主であられるエホバ神、その方の独り子であられる御子イエス・キリストの尊い犠牲において、御前に近づき、お祈り致します。アーメン。

1.神エホバに対する信仰とは、正しすぎる事への追求では決して無く、正しさに関してさえ、平衡の取れた見方なのではないだろうか。

2.神エホバは、人が罪を犯した時、罪を犯した人そのものを憎んだと言うよりも、罪そのものを憎まれたのである。なぜなら、その後の神エホバは、世を深く愛し、御自分の独り子を使わされたからである。

3.実際、どのような義を実践していても、それらが信仰によって食べているもので無いのならば、それは以前として、罪の内にあるのである。

4.自分が、救いという業の一旦を担えないという事で手持ちぶさたであると感じている者達に対して言える事は、1人の人間ではとても手に負えないほどの仕事を自分は少しも負担せずに、神エホバ自ら、また、神エホバ御自身のみで行ってくれる事は、これほど私達にとって救いな事は無いのではないだろうかという事である。

5.私達人間にとって、たとえ、日々失敗してつまづくとしても、あきらめずに努力し続ける事こそが重要なのであり、悔い改め続けること、また、祈り続けること、そして、どんな患難にあっても忍耐し続けていく事が重要なのである。

6.はっきりと言っておく。もともと罪というものが何らかの形で固定して存在していたのでは決して無く、もとは無かったものが、引き起こされた事によって初めて存在するようになったという事実である。

7.罪とはそれ自体で自分を支える事は出来ず、違反を許す存在があって、初めて存在するものである。すなわち、違反を許しておられるのは神であり、罪が存在する事が、それと同時に、神が存在する事の証明となっているのである。

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