高田義裕の人生論

普通の男は、普通の女を求める。できる男はできる女を求める。さらにできる男は自分よりさらにできる女を求める。本当にできる男はできない女をできる女にすることを求める。

普通の人は自分の働いた分を得て喜ぶ。。優れた人は自分の働いた以上の分を稼いで喜ぶ。本当に優れた人はただ他の人に与えることを喜ぶ。

高田義裕の人生論

たとえ、どんな神であっても、働かなくても食わしてくれる神などいない。

高田義裕の人生論

人間にとってどうして神は必要不可欠なのか?

どうか、水面ギリギリまで溜まった水の入ったコップを想像してもらいたい。それにあと、ほんの一滴の水滴を入れただけでも、水がコップからこぼれ落ちてしまう。これと同様に、我々の住むこの全世界もあらゆるすべての要素で満ち溢れている。すなわち、あなたのちょっとした振る舞いも、全世界、全宇宙に影響を及ぼすという事である。例えば、あなたが小さく息を吐いただけでも、それだけで全宇宙の果てまで瞬時にしてそれは伝わる。そう、どんなに小さくて僅かな動作であっても、全世界は満タンで溢れ返りそうな水の入ったコップの様であり、あなたの振る舞い方次第で世界全体の成り立ちが大きく変化してしまうのである。よって、我々人間には、自分が今した事がその後、全世界にどういう結果を及ぼしてしまうか分からないのである。すなわち、自分がした事の原因によって、将来的にどうなるか見通すことが出来ないからである。我々人間が見通せるのはどれだけ頑張っても、今日の事までであり、我々は明日どうなるかも知らないからである。しかし、神は違う。神は全知全能なので、すべての事を見通すことができ、瞬時にすべての事が将来どうなるかを見通すことがお出来になるからである。よって、人間は自分がした事がその後、どうなるか予測出来ない事において全く無知なのである。すなわち、人間は自分で自分の人生を導けないのである。よって、人間が、失敗すること無く無事、順調に生きていくためには、全知全能である神からの教育と指導と導きとがどうしても必要不可欠であるのである。

高田義裕の人生論

世界レベルで記録的猛暑が続いている。この昨今の異常気象はすべて、我々人間が生活する上で排出する二酸化炭素の温暖化が原因である。我々は生活排水を垂れ流し、プラスチック製品を使っては捨て、それはマイクロプラスチックとなって、海水を汚染し、自然の生態系を破壊している。この異常気象の原因は、すべて我々が生活していく上で出る大量の産業廃棄物にある事を忘れてはならない。我々が作り出すあらゆる製品において、企業は利潤を確保しなければならないから、当然、環境コストという支出はなるべく安く抑えたい。よって、本来、不要になったゴミは、きちんと種類別に選別して再利用すべきであるが、環境コストにお金をかけると、全く儲けは出ないから、それは後回しにされ、そのゴミを丸ごと川に流したり、山に廃棄したりするから、自然環境は悪くなって当たり前なのだ。産業廃棄物業者は、産業廃棄物を処理するためのコストを極力抑えるため、面倒な選別などせず、それをそのまま丸ごと海に捨てたり、経済的に貧しい発展途上国に押し付けたりしている。もはや、自然環境は人間が住める状態では失くなりつつある。近い将来、人類は自らの手によって、自らを破滅させてしまうだろう。これは因果応報であり、環境コストを無視した当然のつけであり、報いなのである。しかし、近い将来、人類は自滅の道を辿らない。なぜなら、人類が自滅するほんの手前で神エホバが物事の事態に介入されるからである。それは全人類をまもなく神エホバが滅ぼし尽くされるからである。この全世界は、西暦_2020年の新型コロナショックから、人類に対する神エホバに依る裁きであるハルマゲドン体制が始まったからである。人類はこの時から、長くて、暗いトンネルに入ったからである。人々はこの暗いトンネルからいつ出られるか見当もつかず、非常に苦しむであろう。しかし、全人類の終わりは、ある世界的な宣言によって、突如に始まる。まさに聖書にこう書かれてある。テサロニケ第一の手紙5章3節、この苦しく、重苦しい時代に、人々が平和だ、安全だ、という世界的宣言が出され、人々はこぞって、それに注意を払い、喜び叫ぶ時に、突然の滅びがちょうど妊娠している女に苦しみの激痛が臨むように、彼らに突如として臨みます。そして、すべての王国、すべての政治体制を強制的に終わらせ、神エホバの王国がそれらの代わりに永久に支配します。よって、人よ、お金を愛したり、それを追い求めてはなりません。それは、真の富ではありません。真の富とは、エホバ神から保護される完全な保証の事です。これを追い求めなさい。そうして、神から保護され、神の王国に入れるよう力を尽くして励みなさい。これがすべての人間の本分だからです。

高田義裕の人生論

1進法の開発

コンピューターは0と1の二進法で出来ている。これからは1進法の時代になる。これから、1進法の概念を説明していこう。まず、前提として、0と1の代わりにnotを定義する。次に、notnotであり、notの否定はyesである。すなわち、notnot=yesである。それでは次に、notnotnotである。notnot=yesであったから、notnotの否定はyesの否定であり、notである。こうして、無限に、notnotnotnotnot…..が配列されていく。このように見ていくと、ある規則性が見いだされる。すなわち、not(否定)は、notの数、1や、notnotnotの数、3の様に常にnotの数が奇数になる。すなわち、not=2n+1で表される。それに対し、yes(肯定)は、notの数、notnotの2や、notnotnotnotのnotの数、4の様に常に偶数になる。すなわち、yes=2nで表される。すなわち、この世の万物すべては否定から始まったのである。よって、すべては0と1の二進法ではなく、notだけの1進法で表すことができる。そこから、すべての数は、(否定)か(肯定)すなわち、奇数か偶数のみで区別され、notだけで(否定)と(肯定)もしくは、奇数と偶数の二進法を造ることができる。ここで、notからすべては始まったとすると、万物の初めには、何か否定される存在があることになる。すなわち、始まりは何もないことから始まったのではなく、ある存在が始まりよりも既にあって、その存在を否定することで始まりが生じたということである。これは例えれば、病気が存在しない所から病気が存在した、ということに置き換えられる。これは理解し難いジレンマとパラドックスである。すなわち、何事も原因があって、結果が生じるという大前提、もしくは、過去の後に未来があるという自明の順序が逆になっているということである。すなわち、この我々の住む世界は、その初めから、非常な矛盾性をはらんでいることになる。例えば、次郎は病気になった。その後、次郎は死んだ。という原因と結果の法則が成り立たず、次郎は死んだ。その後、次郎は病気になった。と未来と過去が逆転しているのである。よって、万物は我々人間の常識を遥かに超えた所から成り立っているのである。まさに、後が先に来て、先が後になるのであり、未来が先に来て過去が後にくるのであり、親が後に産まれ、子が先に産まれる、ということであり、子が親を産み、親は子から産まれたということになるのである

高田義裕の人生論

日本の政府は1000兆円もの借金を抱えている。これはいつ、日本国家が破綻してもおかしくはない。誰もがそう言い続けてきた。本当のところはどうなのだろう。この日本国家破綻論は、個人レベルで考えれば、当然すぐにでもそうなるだろう。しかし、ここで考えなければならないのは、この問題を個人レベルというミクロの視点からではなく、あくまでも、マクロの視点で捉えなければならないことである。例えば、あるケーキ屋さんがあるとしよう。ケーキは毎日売れるものではない。売れる日もあれば、売れない日もあるだろう。しかし、立場をマクロの視点に切り替え、地球の全世界のケーキ屋を対象とすると、必ずケーキはどこかで売れていることになる。すなわち、1年を通じて、ある一定量の数が売れていることになる。また、自動車事故も個人レベルで見れば、ほとんど起こらないのに対し、これをマクロの視点で見れば、地球の全世界規模を対象とすると、交通事故は、必ずどこかで起きているから、これも1年を通じて、ある一定数の交通事故が平均化されてくる。要するに、ミクロの視点とマクロの視点とでは事情が少し異なる。すなわち、個人が多額の借金を抱えている状態と、膨大な数の国民で成り立っている国家が多額の借金を抱えている状態とでは事情もその考え方も異なるということである。すなわち、マクロ的レベルをミクロ的視点で判断しても、それは間違った見方をしてしまうということである。よって、個人的レベルで多額の借金を抱えている場合は、必ずすぐに破綻しても、国家的レベルで多額の借金があっても、必ずしもすぐには破綻するとは限らないということである。

高田義裕の人生論

数学の常識における危機

1+1=2ではない。また、1ー1=0でもない。例えば、男と女の1人ずつが一緒になれば、彼らはもはや二人ではなく、一体である。すなわち、1+1=1である。なぜなら、お互いの不足分を二人で補い合い、二人の分を分け合い、互いの短所を交換し合い、2つのパズルのピースがちょうど合わさって1人の人となるからである。まさに聖書にこう書かれてある。創世記2章24節、それゆえに、男はその父と母を離れて自分の妻に堅く付き、二人は一体となるのである。また、ある人がある商品を欲しくて手に入れたい場合、その人とその商品が一緒になるためには、その間に必ず媒体となるバイヤーが必要だ。その商品を運ぶ運送屋も必要だし、この場合、1+1=3にも4にもなる。また、1つのビスケットが割れた場合、1ー1=0ではなく、そのビスケットの大きさにこだわらなければ、ビスケットが半分になって1ー1=2になったり、その欠片も1として見なすなら、1ー1=∞になったりする。また、化学式においても、水素と酸素が結合するためには、その構造式は、H―O―Hとなり、一個余分にHが必要となり、この場合、1+1=3となる。このように我々の住むこの自然界は数学の足し算や引き算の常識が通用しないことが数多くあるのである。すべての物質間においても、1つ1つが合わさると、そこには摩擦熱が生じて、わずかではあるが、物質の質量が摩擦エネルギーとして放出された分、質量は減るのである。すなわち、1+1=0,9999…となる。また、2つの物質が離れると、合わさっていた共有部分集合が分かれて、重複していた部分が1つ1つの別の集合になることで、わずかではあるが、質量は増えるのである。すなわち、この場合、1ー1=1、01となる。このように、自然界の物事をより、緻密に厳密に調べていくと、数学における足し算や引き算の前提、もしくは自明な事柄が成り立たないことが分かる。およそ、1+1=2や、1ー1=0などのように、綺麗にきっちりとした整数に分かれる世界などどこにも無いのである。よって、これからは数学はもはや古い学問として淘汰されていくであろう。これからはもっと自然界の物事がより正確に認識できるようになる新しい学問が必要となる。すなわち、数学の限界を超えた超数学が必要となるのである。

高田義裕の人生論

加算法から減算法へ。

我々の今までの文明は皆、加算法であった。例えば、車や電気製品などの機械製品を作るとき、それはどのようにして作られるか?まず、部品を作り、それらを組み合わせて1つの製品を作るのではないだろうか?すなわち、部品という要素を1つ1つ付け足して1つの大きな集合を形成させるのである。しかし、これからの21世紀は全く違う方法で物を作ることになる。それは減算法である。例えば、我々の回りにいるすべての生物や我々の人体はすべて減算法で作られている。いわば、我々の人体の中にある、すい臓や肝臓などの臓器は部品ではない。なぜなら、我々の人体は組み合わせられて出来たものではなく、産み落とされて出来たものであり、外部から徐々に手を加えられ、何かを付け足して出来たものではないからである。我々は皆、母親という大きな母体から分かれ出てきたものだからである。すなわち、母体という全体から胎児という部分を引いたものが人体なのである。だから、自動車の様に、エンジンが壊れたからそれを外から取り出して、新しいものに付け替えるというわけにはいかない。心臓が壊れたから、その心臓を取り出して外から新しい心臓を付け替えるわけにはいかないのである。よって、ここで、今までの我々の世界の常識である、小さいものを付け足して大きいものにするという固定観念を捨てねばならない。すなわち、1+1+1+1+1…=∞という意識を捨てることである。これからの世界の常識の標準は、全体から部分を差し引いてゆく減算法、すなわち引き算的思考に切り替えていかなければならない。すなわち、1+1+1+1=4という考え方ではなく、5-1=4という発想をしていかなければならない。よって、唯一全能の神エホバの作られたこの大宇宙は、すべて減算法で作られている。すなわち、全宇宙を考えた場合、地球が壊れたから、その地球を全宇宙の外の世界から取り出して、別の新しい地球に取り換えるというわけにはいかないのである。地球とは、全宇宙から生まれ出てきたものであり、逆に言えば、地球1つでも失ったら、それは全宇宙を失うことに等しいのである。これは、例えれば、チョコレートパフェの一番下の部分だけを食べようとしても、そうするなら、それはチョコレートパフェの上の大部分を取り除かなくてはいけなくなることと、同じである。すなわち、この全世界の成り立ちは、all in one ということであり、また、one for all, all for one ということである。人間社会も同じことである。あなたという存在は、人類全体に影響を及ぼす。ある1人の人が苦しめば、人類全体が苦しむのである。今までの加算法で言えば、あなたという存在は、全人類の中のほんの1人に過ぎないし、たとえあなたが死んでも世の中は何の影響もないという考え方が当たり前だった。まさに進化論的発想である。しかし、これからは全く違う。これからの減算法では、あなた1人が苦しめば、みんなも苦しむのである。よって、勇気を出しなさい。あなたという存在がいなければ、この全宇宙も存在しないのである。まさに聖書にこう書かれてある。ルカによる書、12章6と7節、すずめ5羽はわずかな価の硬貨2つで売っているのではありませんか?それでも、その1羽といえども神エホバのみ前で忘れられることはありません。ところが、あなた方の髪の毛までがすべて数えられているのです。恐れ、怯えることはありません。あなた方はたくさんのすずめより価値があるのです。

高田義裕の人生論

数学、及び論理学の限界

数学の最大の価値は何であろう?それは極度の厳密性にある。しかし、厳密であることと、正確であることとは、実は全く別のものである。では数学は正確であるかと言うと、実はそうではない。なぜなら、数学は厳密性を重視するゆえにその正確さを犠牲にしているから。これはどういうことか?例えば、ある製品を作る場合、壊れにくくするためには、なるべく単純な作りにして、部品の数を極力減らすことである。なぜなら、複雑な作りにすればするほど、壊れ易くなるからである。これと同様に、物事を厳密にするためには、なるべく単純なものにしなければならない。例えば、あなたが卵焼きとサラダとオレンジジュースを食べるとする。それらを全部食べてしまえば、腹の中は卵焼きとサラダとオレンジジュースが混ざり合って、ごちゃ混ぜな状態となっている。それでは、あなたは卵焼きとサラダとオレンジジュースを食べる時、それらをすべて1つの皿に入れて、かき混ぜて食べるであろうか?いや、そんなことは普通はしない。あくまでも、卵焼きは卵焼きとして食べ、サラダはサラダとして食べ、オレンジジュースはオレンジジュースとして別々に食べるはずである。すなわち、食べている時の状態と、食べた後の腹の中の状態は、私達にとっては全く別の状態であるという事である。しかし、数学や論理学において、卵焼きとサラダとオレンジジュースを別々に食べることと、それが腹の中で混ざり合って、ごちゃ混ぜになっていようとも、内容は同じ卵焼きとサラダとオレンジジュースに違いないと見なされ、それらは同じ等式で表されてしまうという事である。もっと言えば、リンゴ2個とみかん2個は全く別の種類の2であるが、数学において2は同じ2と見なされ計算されてしまう。すなわち、厳密であるという事は、扱う部品を極力減らすこと、単純化すること、物事を簡略化することによって、初めて可能な事なのである。簡略化するという事は、曖昧な要素をあえて削除するという事であり、曖昧さとは、この現実世界に無数にある。例えば、味の微妙な違いや、色の濃度の微妙な違い、人間の心理状態の微妙な違いなど様々である。それは虚構ではない。それは現実であり、物事の確かさであり、正確さである。それらはあまりに複雑で、曖昧であるゆえに単純に数値化できない。数学においては、数値化できないものは厳密性に反するものとして排除し、削除してしまう。すなわち、数学はその厳密性ゆえに、より現実的な曖昧性という確かさ、もしくは正確さを犠牲にしているのである。では、正確であるためにはどうすれば良いか?それは2種類の方法しかない。すなわち、極度の具象性に絞るか、極度の抽象性に絞るかのどちらかである。例えば、彫刻像を彫る場合、最初は荒削りで十分であり、右方向に20センチ、左方向に10センチ彫り進めるなどと非常に分かりやすく、具体的である。しかし、彫り進めるうちに表面はだんだん滑らかになって行き、最初の荒削りの様に分かりやすく単純ではなく、非常に微妙で繊細で複雑な彫り方をしなければならない。すなわち、非常に抽象的であり、分かりにくくなる。つまり、荒削りという単純な引き算から、引き算でも足し算でもないようなミクロの世界へと変わる。すなわち、我々にとって分かりやすい、日常的に当たり前に使っている足し算とか、引き算、もしくは掛け算とか割り算はマクロな世界でしか使えない概念なのである。すなわち、非常に抽象的であるミクロの世界では、足し算とか引き算、もしくは掛け算とか割り算は常識として成立しなくなるのである。よって、この我々の現実世界を本当の意味でより正確で、微妙で繊細な点まで詳しく理解しようとしても、それは、我々がこの日常というマクロな視点でしか、物事を見ていない限り、我々の世界とは違うミクロの世界を我々は明確に、かつ正確には理解できないし、ミクロの世界の表現方法の術も我々は知ることはできないという事である。よって、数学とは、あくまでもマクロな世界でしか使用できないものであり、ミクロな世界では用いてはならないものなのである。もし、それでも敢えて数学を用いるなら、それは非常な危険性をはらむ事になる。その典型的な事例が、かのアインシュタインの有名で美しい公式である、E=mcの二乗である。この美しい方程式はミクロの世界の原子力の膨大なエネルギーを予見することは出来たものの、原子力のエネルギーを放出する際に出るその副産物である放射線という人体に極めて有害な物質の存在まで予見することはできなかったという事に表れているという事である。