高田義裕の人生論

今日の格言

生きるという事は厳しい。なぜなら、生きるという事は、自分というものを売り込むという事だからである。すなわち、生きるという事は、自分という不完全で品質のあまり良くない商品を売り込んで、相手に買わせるようなものだからである。それには相当の自己表現力、すなわち卓越した営業力が必要だ。なぜなら私たちは格段優れているわけではない普通の凡人だからである。大半の人はこの比喩的な意味での口のうまさを磨いていないため、安く買い叩かれる。そう、ほとんどの人は実際の自分の良さを相手にアピールする事が上手にできない故に、自分の良さを発揮できずに終わる。すなわち、本当の自分を他の人に知ってもらう事が出来ないのである。特別な才能のある人なら優遇されるが、我々凡人は、一人一人個性が違うのに、凡人という有難くない表現でひとくくりにされてしまう。そう、本当はもっと別の分野で活躍できる可能性を持っているのに、自己表現力が乏しい故に、我々は望まない境遇に身を置かざるを得ないのだ。それだけ人間とは人間に対して自分を知ってもらうという事は大変難しい事なのである。要するにこの世の中は、才能がなくても、自分を売り込む営業力があれば、成功してしまうものなのである。逆にどれだけ才能があっても、自分を売り込む営業力がなければ、人生の敗残者となってしまうのである。世の中はこのように理不尽なものであるから、我々はもっと自己表現力を身につけよう。要するに相手に自分の事をよく知ってもらうための練習をするのである。例えば、あなたが内気なら、無理をして外交的に振る舞うのではなく、相手の話をよく聞いてあげる、という内気という受動的な性質が良さとして発揮できるように努力したりする事なのである。そう、大半の人は自分の弱点を隠そうとばかりするのであるが、逆に自分の弱点を良いふうに発揮できるように、自分に素直になってみる事である。そう、自分の弱点を直そうとしてもそれは非現実な事だから、自分の弱点を逆に利用してやるのである。まず自分に対して素直で正直になる事が人生においてうまく立ち回るコツなのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

神の存在とは、証明されるべきものではなく、確信されるべきものである。なぜならば、神の存在が証明されたところで、人々はなんの影響も受けないからである。たとえ神の存在が証明されたとしても、人は神に信仰を抱かないからである。しかし、神の存在を確信する事はその人に影響を与える。その人は神に対して信仰を持つからである。神に対する確信は人を行動へと促し、神の御意志に調和した行動を取るよう、その人の心に直接影響を及ぼすからである。

高田義裕の人生論

今日の格言

新型コロナウイルスが猛威をふるっている。最初は日本と韓国が一番感染者が多かったのに、今は、その猛威がヨーロッパに移動し始めた。なんという感染力の強さだろう。しかし、ここで考えたいのは、本当に怖いのはコロナウイルスではなく、人間だという事だ。コロナウイルスが人を動かしているように見えるが、実は人がコロナウイルスを動かしているのである。コロナウイルスでパニックになる人や、別に何にも思わない人もいるし、国のミスリードで、本来なら感染しなかった地域に拡大したり、本来なら感染するはずの地域が感染しなかったりするのだ。この騒ぎに乗じて、マスクや物資を法外の値段で売りつけて儲けようとしている者もいるし、善意により無償でマスクや物資を提供してくれる人もいる。そう、人間はみんなやる事がバラバラなのである。本来なら、全人類が一致して、協力し、コロナウイルスを撲滅する事に集中しなければならないのに、人類は自分の命がかかっているのに、対処の仕方が支離滅裂なのである。このバラバラの対応がコロナウイルスをさらに拡散させる原因となっているのである。なんと人間とは互いに一致できない生き物なのだろう。そう、世界をまとめられるような、カリスマ的なリーダーシップを取れる指導者がいないのだ。コロナウイルスを拡散させないようにすると、日常の売り買いや商売は滞る。なぜなら人々が集まり会えないからだ。そのため、生活が厳しくなり、借金や支払いができなくなる人が増え、コロナウイルスで死ななくても、経済的に打撃を受け、首をくくらなければならなくなる人も大勢出てくる。要するに、コロナウイルスを収束する事を優先すると、生活難に陥るし、生活を優先して、対策を何もしないと、コロナウイルスをさらに拡散させる事になってしまう。すなわち、コロナウイルスを収束させながら、経済も活性化させるという事が同時に行えないのである。これはある意味、核ミサイルより、恐ろしい世界である。すなわち八方ふさがりな状態になってしまうのである。暖かくなれば、コロナウイルスも収束するだろうと言われているが、熱帯雨林の熱い南アメリカの国々まで感染は広がっているから、それも怪しくなってきた。一旦、感染が収束して、人々が再度集まり出すと、また感染が広がる恐れもある。この見通しの立たない恐怖ほど恐ろしいものは無かろう。伝染病とはなんという混沌(カオス)を生み出すのだろう。私たちにとって、ほとんど未知の新しい体験であり、対処できなくて当たり前なのである。誰も伝染病など予想していなかったのだから。よって、もはや我々の手に負えない事柄は神に頼るしかない。まさに神に祈り求めて、この全世界のコロナウイルスのパンデミックをなんとか収束させて下さるよう請願を捧げるのである。唯一全能の神エホバよ。私たち人類は苦悩しております。どうか、すべての人々を見捨てないで、救い出してください。たくさんの尊い命が失われております。どうか、私たちの日頃の罪をお許しください。どうか、あなたのその全能の力により、コロナウイルスが収束しますように。そうして、また元の普通の生活を取り戻し、生活難にあえぐ私たちをどうか救い出してください。私たちの思い煩いをすべてあなた、エホバに委ねます。なぜなら、あなたはそれを顧みてくださる方だからです。このあなたに対する日々の感謝の気持ちと切なる願いを込めて、御子イエスキリストの尊い御名を通してあなた、エホバにお祈り申し上げます。アーメン。

高田義裕の人生論

今日の格言

我々の世界はより高度ではあるが、決して幸せではない。

2.自分という存在を良い事の特別にも、悪い事の特別にも考えてはならない。

3.我々は富を得る事はたくさんの物を所有する事だと思っている。しかし、生きるとは、本来、何も所有しない事なのである。なぜなら、私たちが物を所有する時、それを所有し続ける限り、その所有物はどんどん古く時代遅れなものになっていく。すなわち、それはずっと変化せず、埃をかぶっていくのである。しかし生きるとは、常に流動的で、変化に絶えないものであり、常に新しいものを求めて、進歩する前進的なものである。よって、所有するということは、死ぬという事なのである。要するに、進歩を止めて、そこで止まってしまう事なのである。よってたくさんの物を所有しても、世の中はどんどん進歩していくから、自分の持っている物はどんどん古くなって、価値が下がっていくのである。そんなものがどうして富んでいると言えるのか。よって、人はたくさん物を所有すればするほど、損をするという事である。

高田義裕の人生論

今日の格言

我々はなぜ生きているか。それは私たちが生きているうちは分からないであろう。これは自己言及のパラドックスである。生きている事に依存しながら、生きているとは何かを考えても、それは無意味だからである。例えば、心とは何かを問う時、我々は心を使っている。それゆえに心とは何かを知る事はできない。よって何事もそれを知るためには、それを観察しなければならない。すなわち、ある事柄の性質を知りたい場合、その対象物からは独立して離れていなければならない。例えば、ライオンがライオンとは何かを問うても、ライオンにはそれは分からない。あくまでもライオンとは何かを問うためには、ライオンとは別の存在が、ライオンという存在から独立して離れている事により、初めて客観的にライオンを観察できるのである。そうである、人間にとって生きるとは何かという問いは、あまりにも主観的過ぎて客観的見方ではないのである。よって生きるとは何かを客観的に観察するためには、我々は生きる事から独立して離れていなければならない。それによって、初めて生きるとは何かを客観的に観察する事が出来る。では、我々は生きるという生命そのものだから、生きている事から独立して離れる事などできるだろうか。いや、それはできない。すなわち我々はなぜ生きているか、という問い自体が生きているという事の部分集合に過ぎない事に気づくのである。よって我々が生きるとは何かを知る場合は、まず、生きているという事を超越しなければならない。しかし、我々は生きる事自体から逃れる事はできないので、我々はなぜ生きているか、という事を知る事はできない。すなわち、我々は生きる事の奴隷なのである。しかし、人は自分がなぜ生きているかを模索し、考え、悩みぬいた末、自殺する事もある。では、死とは生きているという領域から独立して離れているのだろうか。いや、それは離れていない。すなわち、死は生きる事を超越してはいないし、独立して離れてもいない。なぜなら、我々は生きている存在だからこそ、死ぬという選択も可能なわけだし、この意味において、死は生きる事の反対ではなく、あくまでも、死は生きている事の部分集合(一部)なのである。よって、たとえ死んでも、我々は生きる事から逃れる事はできない。なぜなら死は生きる事の部分的要素だからである。よって人はたとえ死んでも、生きているのである。死さえも生きる事から別たれる事はできないのである。よって生きる事を超越する事は死ぬという事ではない。すなわち生きている事を超越する事は、生きる事でもなければ、死ぬ事でもないのである。よってもし、生きる事を超越できれば、我々はなぜ生きているかを、明確に知る事が出来るだろう。

高田義裕の人生論

今日の格言

神学序説

(神の見えない特質)

不信論者は、こう言う事であろう。神を信じろだって。私たちは神を見た事もないし、もし神がいるのなら、私たちにその姿を見せて欲しい。そうすれば、私たちも神の存在を信じよう、と。しかし、はっきりと言っておくが、神が見えないという事が神を信じない理由とはならないという事である。まさに聖書にこう書かれてある。新約聖書、使徒パウロによるローマ人への手紙1章20節、[というのは、神の見えない特質、すなわち、そのとこしえの力と神性とは、造られた物を通して認められるので、世界の創造以来、明らかに見えるからであり、それゆえに彼らは言い訳ができません。]ここで聖書はなんと答えているだろうか。神とは存在しないから見えない、とは言ってはいない。むしろ神が見えないのは神の特質であると言っている。では、特質とは何か。それは神が見えないのは、神の神性ゆえであり、その神性とはとこしえの力であると述べている。すなわち、もし、神が私たちに姿を見せても、信じない者は信じないのである。彼らはそれは何かの幻覚だ、と言うであろう。すなわち、神を信じる、信じないは、見えるとか、見えないとか、という物理的に依存していない。すなわち、神を信じる、信じないは、その人の心の状態(精神)に依存しているのである。よって、良い習慣を持っている者は、たとえ、神が見えなくても、神を信じるであろう。なぜなら彼らは神を信じたいからである。なぜなら、自分の業を褒めてもらいたいが為に。しかし、日頃から悪い習慣に耽っている者は、たとえ、神が見えても、神を信じないであろう。なぜなら彼らは悪い習慣のゆえに神を信じたくないからである。まさに聖書にこう書かれてある。新約聖書、ヨハネによる福音書3章20節,イエスキリスト御自身が語られた言葉。[いとうべき事柄を習わしにする者は、光を憎んで、光に来ません。自分の業が戒められないようにするためです。]すなわち、神は心で見るものなのである。私たちも目には見えない(心)というものが確かに存在する事を暗黙のうちに了解しているではないか。すなわち神はいないと言う者は、心の中で心は存在しないと言っているも同然なのである。あなたは神という居心地のいいソファに寝そべりながら、私にとってソファは存在しないと言っているに等しいのである。なぜなら、すべての者は神によって存在し、神によって世話を受けているからである。あなたは世話を受けている人に対して、あなたは私を世話していない、と言えるだろうか。それは全く道理を理解していない気違いじみた精神状態なのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

この世の中には、悪い人もいないが、良い人もいないのである。

2人は人を教え諭すのではなく、人は人を互いに許し合うのである。

3.一時的な心地良さは、人を決して幸せにしない。

4.私たち自身にとって益になる事は、常に苦痛を伴うものなのである。しかし、それを習慣付ければ、それもいずれは当たり前になるのである。

5.賢い者は悟った。自分自身がいかに愚かであるかを。また、愚かな者は思った。自分自身がいかに賢いかを。

6.真のキリスト者は、義の奴隷ともならず、また、悪の奴隷ともならず、ただ、唯一まことの神エホバの奴隷となるのである。

7.はっきりと言っておく。恵まれた者が立派になったためしはない。

高田義裕の人生論

今日の格言

二元論

できる事をしたからといって、何をした事になろうか。できない事をできるようにする事に意義があるのである。よって、すべての事をすべてで表現しても何をした事になろうか。よって、すべての事をたった2つで表す事に意義があるのである。すなわち、たった2つですべてを表すものを形成させる要素を二元要素と言う。よって、あらゆるものはすべて、二元要素に帰着される。よって、すべての事を二元要素に帰着させる事を二元論と言う。よって、もし、10個あるものが、AとBとCの3個で説明されたとしても、それは正しく説明されたとは言えないという考え方であり、常にあるものが必ず、2つに帰着されなければならないのである。この場合の2を真理定数と言う。

高田義裕の人生論

今日の格言

新確率論

コインの表の表は裏であり、コインの裏の裏は表であるように、偶然の偶然は必然であり、必然の必然は偶然である。よって、偶然の偶然の偶然は、偶然であり、必然の必然の必然は、必然である。よって、必然(偶然の偶然)が偶然起こったとき、それは偶然である。また、偶然(必然の必然)が必然起こったとき、それは必然である。すなわち、逆に言えば、偶然と偶然が必然的に起こった場合を偶然と言い、必然と必然が偶然的に起こった場合を必然と言うのである。

高田義裕の人生論

今日の格言

本来、すべてのあらゆる問題は心の変化だけですべて解決出来ること。すなわち、向こう側(問題側)が変わるのを期待するのではなく、自分の方から心を変化させる事により、向こう側(問題側)に対する印象を別の視点に変えるという事である。例えば、突然のトラブルにより、自分の全財産を失ったとしても、その失った欠落感に浸って苦しみ続けるのでは無く、自分の心の視点を変えて、すべて失ったのだから、これを契機にまた新しい人生の出発点に立ったのだ、と前向きに考えるのである。また、交通事故で子供を失った場合、その子供を失った喪失感に浸って苦しみ続けるのでは無く、自分の心の視点を変えて、あの子を失ったおかけで、私は一生、我が子の事を彼が生きている時以上に愛する事が出来る、心の若さを得られた、と思って前向きに考えるのである。人は愛する人が死んだ時、その人が生きている頃よりもその人を愛する事が出来るからである。そうして一生その失った人を思い続ける事により、心は老化する事無く、心の若々しさを保つ事が出来るのである。すなわち、どんなに酷い目に遭っても、生きている限り、希望はあるのである。全財産を失ったからといって、あなたの人生まで失われたわけではない。あなたはそれでも生きていかなければならないのである。子供を失ったからといって、あなたの命まで失われたわけではない。あなたはそれでも生きていかなければならないのである。人は生きている間、希望がある。なぜなら、私達は本来、利己的であるからである。利己的であるとは、例えば、自分が悪い事をしても、自分を憎む事はしないという事である。それは自分が他の人の悪口を言っても、反省しないのと同じである。よってたとえ全財産を失おうとも、我が子を失おうとも、それは正しいあなたが正しく悲しんでいるのではなく、利己的なあなたが利己的に悲しんでいるに過ぎないからである。そう、あなたが悲しんでいるのは、全財産を失ったという、欲望が遂げられなくなったという利己的な意味で悲しんでいるのであり、我が子を失ったという、自分にとって今まで漠然と抱いていた利己的な人生経過がうまくいかなくなったという意味で悲しんでいるだけだからである。そう、我々は悲しむ時、誰から見ても同情出来る、正しくて客観的な理由で悲しんでいるわけではないからである。それは、多分に、誰から見ても同情出来ない、身勝手で、主観的な理由で悲しんでいるからである。よって人は悲しむ時、自分の悪いところ、すなわち利己的な意味で失いたくない心の甘さにダメージを受けた故に悲しんでいるのであって、もし、あなたが利他的で正しい事柄の故に悲しんでいるのであれば、あなたは喜んでいるはずだからである。例えば、あなたが不当に扱われ、差別を受けているとする。その意味では、あなたは誰から見ても同情出来る正しい立場にいるのである。そしてその不当で不公正である立場を失った場合、あなたはそれを悲しむのではなく、むしろ喜ぶのではないか。そう、私達が悲しむのは、自分の方に非があるくせに自分は正しいと思っている事を否定されたから悲しんでいるのである。そう、私達が喜ぶのは、自分の方に非がないのに自分は間違っていると思っている事を否定されたから喜んでいるのである。よって、人よ、辛くて悲しい目に遭った時は、自分の閉鎖的な利己的価値観に囚われて孤独に悲しむ事をやめよ。むしろ悲しい時ほど、その悲しさをまず周りの人達にその苦しみの内を吐露すること。そう、他の別の価値観を持った人たちと共に共有してもらうのである。すると、それまで自分がいかに自分にしか通用しない小さな世界に囚われていたか、という事に気付くであろう。そして他の人のからの慰めの言葉や、自分では思いもしなかった別の価値観や視点からのアドバイスを受ける事によって、いかに自分の悩みというものは小さく、そしてこの世の中はいかに自分より大きくて広いものなのだろうか、と悟る事が出来るし、自分の都合という自分の壁を取り壊す事が出来、そこには新たな自由で広い世界という希望が開かれるからである。